龍神楊貴妃伝

由利霊狐御子3(熊野に祀られた結神の正体)

 熊野の神は、古く・・・イザナギ・イザナミの時代、あるいは、紀元前200年前の徐福の時代から存在していたでしょう。しかし、初 期の熊野信仰には、本宮・新宮・那智といった熊野三山という概念はなかったでしょう。
 この熊野三山という考え方は、平安時代の後期に出来上がったと考えられます。
 私は、この熊野三山という考えは、熊野に由利霊狐美御子=楊貴妃が祀られ、この由利霊狐美御子が、新しく熊野の主神となった事によって生まれて来たのだ と考えます。

●三宝絵に書かれた熊野の神

 楊貴妃が生きていた奈良の時代には、熊野は、イザナキ(速玉神)、イザナミ(牟須美神(ふすみかみ))とスサノオを祀(まつ)っていたでしょう。

 しかし、この時代には、新宮も本宮も、新宮や本宮という名前では、呼ばれていませんでした・・・ 資料に最初に「新宮」と「本宮」という名前が見えるの が、自分の捜したかぎり、「三宝絵(さんぼうえ)」の書かれた永観(えいかん)2年(984)です。「三宝絵(さんぼうえ)」には次のようにあります。

 「紀伊国牟婁(むろ)の郡に神います。熊野両 所・証誠一所となづけたてまつれり。両所は母と娘となり、結早玉と申す。一所はそへる社なり、此の山の本の神と申す。新宮・本宮にみな八講をおこなふ。」 (三宝絵  源為憲著 出雲路修校注 平凡社より)絶版 三宝絵そのものは、他出版社から出ていますので捜してみてください。

 この「三宝絵」から、この時、考えられていた熊野の神の形態を推測してみます。

 熊野両 所は、母と娘ですから、共に女神です。一つは結神で、これが、本宮、大斎原にいる神でしょう。もう一つが早玉神、これが新宮にいる神という事になります。
 もう一つ証誠という付属する神がいて、これが、「そへる神」すなわち、並祀されている神で、これが、この山の本の神だったと書かれているわけです。
 現在、熊野本宮大社には、「証誠殿」という社があり、これが、本宮大社の主神である「スサノオノミコト」だとされています。

 ここから想像すると、この「三宝絵(さんぼうえ)」の書かれた永観(えいかん)2年(984)には、熊野三所権現は、成立しておらず、熊野は本宮・新宮 の両所権現だったと考えられます。そして本宮には、元々、証誠という神(スサノオ?)が祀られていましたが、そこに「結神」という女神が祀られている状態 になっていました。さらに新宮にも、この娘神として早玉神が、新たに祀られたと考えられます。

 「三宝絵」を編した源 為憲が、早玉神を「イザナキ」と考えていない事は確かでしょう。なにしろ「イザナキ」は神々の父神であって、「娘神」ではありません。

●熊野の楊貴妃信仰の成立過程

 ここからは、全くの私の想像ですが、おそらく、西暦800年代の前半、空海が高野山に楊貴妃を祀ってまもない頃に、南山の犬飼・千代定こと阿羅昆 可(あらびか)、もしくは、天台寺門派の開祖である円珍、あるいは、この2人の協同作業によって、熊野大斎原に由利霊狐美御 子=吉備由利=楊貴妃が祀られたのでしょう。

 楊貴妃は、全ての仙女の統率者である「西王母」と同一視されていましたから、由利霊狐美御子が全ての神の母神である「イザナミ」=牟須美神とも同体であ ると考えられる事になったと思います。

 牟須美神は、「由利霊狐御子2」で述べたように、もともと、「産 び神」だったでしょう。しかし、「結」の文字が、「ムスビ」とも、「ユリ」とも、キツネをあらわす「ケツ」とも読める事から、「結」の字を宛てるように なったと考えられます。

 やがて、熊野の楊貴妃信仰は、速玉神をも飲み込み、新宮に は、新たに「西王母」の娘である「董双成」、もしくは、「イザナミ」の娘神である「天照大神」を祀っているとイメージされるようになったのではないでしょ うか?

 これが、「三宝絵(さんぼうえ)」の書かれた永観(えいかん)2年(984)の状態だったでしょう。

 ここで、すでにスサノオに証誠という文字が宛てられている事になりますが、証誠は、仏教用語で、「真実であると証明すること。」参 考 goo辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/108825/m0u/で すので、この名前は、仏教の影響を受けてつけられた呼び名に間違いなく・・・・円珍の天台寺門派が、大斎原に由利霊狐美御子を祀ってから名付けられたもの と考えます。 

 少し時代を遡ると、延長(えんちょう)5年(927年)の「延喜式(えんぎしき)」神 名 帳(じんみょうちょう)の中で、熊野の神は「早玉(はやたま)神」と「熊野(くまの)坐(にます)神社」と記されています。熊野坐神とは、熊野に 居(い)ます(坐(すわ)る)神という意味しかなく、すなわち、神の正体が明らかでありません。私は、これを、大斎原(おおゆのはら)に祀(まつ)られた 神の正体を禁秘(きんぴ)とする意識があったのではないかと想像します。

●熊野三所権現の成立

 ここに、那智大社が加わって、熊野三所権現を形成するのは、平安時代後期の熊野参詣ブームが起きる頃だったでしょう。

 「那智」の名前は、 「扶桑略紀(ふそうりゃくき)」の永保(えいほう)年(1082)10月17日条が初出(しょしゅつ)で、熊野山大衆が新宮・那智の神輿(みこし)をかつ いで上洛(じょうらく)した記事があります。
 「那智の滝」は、熊野が密教の修験者の霊場(れいじょう)になるにつれて修行の場として注目を集めるようになり、特に、花山法皇(かざんほうおう)の千 日修行(「皇族達の熊野参詣の始まり」参照)で知られ、新興(しんこう)の霊場と して発展を遂げつつありました。そこで、那智には、大斎原(おおゆのはら)に祀られていた「牟須美(ふすみ)神」を分社して、権威付けをする形となってい たのでしょう。

 同時に、「由利霊狐美御子」は、「牟須美(ふすみ)神」や「速玉(はやたま)神(早玉神)」が重ね られて、「結玉(結早玉)家津美御子」と表記される事になり、これが貴族達による熊野参詣ブームに伴い、三狐や三人の吒枳尼 夜叉のイメージも手伝って「結・玉・家津美 御子」と3分割され、「那智」「新宮」「本宮」という祭神(さいじん)を構成する形になったのではないでしょうか。
熊野三山社殿構成
熊野古道 小山靖憲著 岩波新書 より、太枠は、現在、主神とされている社

●熊野三所権現は同じ神を祀っている

 熊野三山が同じ神を祀っているのは、明らかです。それは社殿配列(しゃでんはいれつ)からもわかります。
 現在の社殿配列は、往古(おうこ)の物とは少し代わってしまっていますので、中世の頃の社殿配列を「熊野古道 小山靖憲 岩波新書」から転載します。

 さて、この社殿配列を見ると、本宮と新宮は、コピーと言っていいほど似ています。那智は、少し、形が違いますが、これは、場所が大きさ的に取れず、ま た、那智だけにある滝宮(たきのみや)とのバランスを取るために、若宮(わかみや)を左端に置いたと思われます。

●熊野の主神は、結=由利神である

 これをみると、熊野三山に祀られている宮のうち、最も、重要な神は、「結神」と思われます。

 本宮と新宮では、左端の最上位の第一殿に納められていました。(並べるときは、左大臣・右大臣と言うように、左が上となります。)
 現在の本宮社殿は、明治の大水害で流されて以来、第5〜8、第9〜12の二棟を欠(か)いています。それから、不思議な事とされていますが、主神が祀ら れているとされる証誠殿(しょうじょうでん)の前ではなく、第一殿である結神の前に、拝殿(はいでん)があります。これは、水害で流される前、大斎原(お おゆのはら)に祀られていた時も、同じ構成であったと伝わっています。

 那智では、二番目の場所となっていますが、那智の主祭神は、「結神(牟須美神)」とされていて、ここでも、最も、重視されている神が「結神」である事は 間違いありません。

 ちなみに、那智で、一番左に置かれている「若宮(わかみや)」とは、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」をさします。「龍神温泉絵図の解析」 で示したように「吒枳尼天 (だきにてん)」が、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と同一視されることもあり、これが「若宮」が一番左に祀られている理由かもしれません。また、 那智では、おかしな事に一番右の滝宮「飛瀧権現」を第一殿と呼んでいます。この「飛瀧権現」も「結神」と同一視されている事は、「楊貴妃隠棲2」で示したとおりです。

 熊野三山に祀っている神が、「結(けつ)神(ゆりがみ)」=「狐・由利神」・・・・「楊貴妃」であるという考えが、この社殿配列からも出来ないでしょう か?

 熊野三山に祀る神が全て、「楊貴妃・由利霊狐美御子(ゆりたまけつみみこみこ)」・・・・・。
 以前、「熊野三山のキツネ信仰」で紹介した輪王(りんおう)灌頂(かんじょう) に書かれた円珍(えんちん)の「熊野三山悉(ことごと)く吒枳(だきに)なり」という言葉が、ますます、真実味を持って迫って来ないでしょうか?


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