●熊野に残る狐の女神の痕跡
熊野三山にキツネが祀られていることは、あまり意識されていません。
「伊勢屋、稲荷に犬の糞(くそ)」と言われるように、稲荷神はどこにでもあります。
それに、カモフラージュされて、気がつかないのですが、熊野には、たくさんのキツネ信仰があり、そして、それが、とても、古くからの言い伝えや、記録を
持った信仰なのです。
「九尾のキツネの謎」の中でお話をしましたが、私は楊貴妃が、キツネと噂される美女であったと
考えています。
熊野が、密接にキツネ信仰と結びついていることは、熊野に楊貴妃が祀られている事の大きな根拠です。
写真・新宮・阿須賀神社と稲荷神
●熊野参詣道は狐参詣道だ
昔、貴族達が、熊野参詣をするその行き還りには、
まず、京都伏見稲荷に参詣する事が、習わしとなっていました。都の貴族達は、この伏見稲荷で、護法童子(ご
ほうどうじ)を貰い受け、そして、熊野参詣から
還ると、まず真っ先に伏見稲荷に参拝して、これをお返ししたそうです。この事は、永保元年(1081)、藤原為房によって書かれた「為房卿記」の中に、すでに見られ、貴族達の熊野参拝ブームの初期から行なわれていた事がわか
ります。
※ 護法送り(熊野参詣後の稲荷参拝)の記録は、その他、藤原宗忠『中右記』天仁2年(1109)11月10日の記事、藤原定家「熊野道之間愚記」建仁元年(1201)10月26日の記事、藤原頼資『修明門院熊野御幸記』承元4年(1210)5月12日の記事等、多くの記録にあります。
熊野参詣道は、そこから、まず、キツネの子として有名な安倍晴明の葛の葉
伝説のある大阪阿倍野に出て、信太明神の前を通り、南下して、和歌山に入ると、そこには、最古の稲荷神社と言われる糸我稲荷神社(いとがいなり)があります。
さらに海岸沿いを南下すると、紀伊半島を横断する
中辺路ルートと紀伊半島を迂回する大辺路ルートに分かれます。その分かれ道にある田辺は、「高野山縁起2(南山の犬飼と稲荷神)」でお話をしますが、空海
が稲荷神と出会ったところです。
人々は、途中、王子と呼ばれる社に参拝しながら歩きました。この王子について、新宮の若一王子を灌頂して作ら
れた東京の王子神社は、密接にキツネ信仰と結びついています。
中辺路に入ると、王子以外の神社として、高原熊野神社(たかはらくまのじ
んじゃ)があり、船玉神社(ふなたまじんじゃ)があります。高原熊野神社の歳神
は、速玉神(はやたまかみ)ですが、稲荷神を配祀(はいし)しています。そ
して、船玉神社には、その鄰に玉姫稲荷(たまひめいなり)が併設しています。
こうしてみると、熊野参詣道は、キツネを参拝しながら、歩いてくるルートだとわかります。
●本宮の神は、狐の大神
さらに、熊野参詣道の終着地点は、本宮ですが、この本宮の神様の名を、一名「家都美御
子大神(けつみみこのおおかみ)」と言うのです。関西では、キ
ツネウドンの事を、ケツネウドンと発音しますが、「ケツ」は、キツネの古語読みでもあります。そう
だとすれば、「家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)」とは、祀られている神がキツネだという事を表しているのではないでしょうか?
●円珍が言った「熊野三山は、皆、狐だ」
円珍と言っても、皆さんは、あまり、聞き覚えがないかもしれませんが、円珍は、平安時代に唐に渡った入唐八家の一人で、5代目の天台座主であり、三井寺
(園城寺)の初代長吏にして、天台宗寺門派の宗祖でもあります。おまけに、彼は、空海の甥、又は、姪の息子でもあり、醍醐天皇から智証大師の諡号も送られ
ているすごい人物です。
この園城寺からは、初代熊野検校である「増誉」も輩出していて、熊野信仰とは、とてもかかわりの深い人物でもあります。
この円珍の言葉として、天皇の即位法である輪王灌頂の中に・・・・「三山悉(ことごと)く吒枳(だき
に)也」すなわち、「熊野に祀られた神は、全て吒枳=稲荷神である」と載せられています。
私には、熊野には、キツネを正体とする神が祀られていることは、間違いないことだと思えるのです。
参考
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