龍神楊貴妃伝

高野山縁起2(南山の犬飼と稲荷神)

●同じ罪をおかしながら、空海は大宰府に幽閉され、橘逸勢は京に戻った。

 帰朝命令は、橘逸勢に向けて出ていたでしょう。空海は、当然のように、逸勢にくっついて帰ってきたのですが、命令を出した桓武天皇は、すでに亡くなって いました。息子である平城天皇には、この事情は伝わっていなかったのでしょう。
 空海は、勝手に帰って来た罪を問われて、大宰府に停められ、入京する事は、認められませんでした。
 しかし、空海と共に帰り、空海と同じ罪に問われるはずの橘逸勢は、すみやかに、京都に戻され官位を与えられています。このことは、橘逸勢に帰朝命令が出 ていたという私の推理を裏付けています。

参考

唐の国の正史である旧唐書には、『貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。』と、高階遠成が連れ帰る事を願い出た人物を「學生」すなわち、逸勢としています。同じく新唐書には、『其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,曆二十餘年。使者高階真人來請免勢等俱還,詔可。』と、旧唐書と同じく「免勢=逸勢」を連れ帰る事を願ったと書かれています。

舊唐書/卷199上 東夷 https://zh.wikisource.org/wiki/舊唐書/卷199上
新唐書/卷220  東夷  https://zh.wikisource.org/wiki/新唐書/卷220

 唐の国での勉学の途中を引き戻され、京都に帰った逸勢には、楊貴妃事件を報告するはずの相手もおらず、そして、罪のない空海が罰を与えられている事に憤慨していたのでしょう。逸勢は、老病 を理由に出仕しなかったと伝わります。
 空海が許されたのは、平城天皇の弟である嵯峨天皇が即位して、2ヶ月後の809年7月の事です。
 嵯峨天皇の妻は、橘嘉智子(たちばなのかちこ)です。嘉智子は、橘逸勢の従兄妹ですが、嘉智子は幼くして父を亡くし、その後は、逸勢の父である入居(いりい)に育てられたといいます。 すなわち、嘉智子と逸勢は、兄妹同然でした。
 おそらく、逸勢は嘉智子を通して、自分の調べた楊貴妃事件の調査結果と空海の無罪を訴えたのではないでしょうか?
 空海は、嵯峨天皇によって罪を許され、引き続き、日本での楊貴妃事件の調査を行なうよう命令を受けたに違いありません。

《卷九承和七年(八四〇)四月丁未【二】》○丁未。以從五位下橘朝臣逸勢爲但馬權守。
《巻9承和7年(840)4月2日 丁未》○丁未。從五位下、橘朝臣逸勢を以て但馬権の守と為す。
『続日本後紀』

《卷一嘉祥三年(八五〇)五月壬辰【十五】》○壬辰。追贈流人橘朝臣逸勢正五位下。詔下遠江國。歸葬本郷。逸勢者。右中辨從四位下入居之子也。爲性放誕。 不拘細節。尤妙隷書。宮門榜題。手迹見在。延暦之季。隨聘唐使入唐。唐中文人。呼爲橘秀才。歸來之日。歴事數官。以年老羸病。靜居不仕。
《巻1嘉祥3年(850)5月15日 壬辰》○壬辰。流人の橘朝臣逸勢に正五位下を追贈する。遠江国に詔を下して、本郷に帰葬する。逸勢は、右中弁従4位 下の入居の子である。性は、放誕で、細かい事に拘らず、尤も隷書に妙れ、宮門に榜題(看板)を書いた。手腕の跡は今も見られる。延暦の季に、唐への使いと して
聘され入唐する。唐中の文人は、彼をして、橘秀才と呼んだ。日本に帰って来て数官を 与えられたが、老病を理由に仕える事なく静居していた。
『日本文徳天皇實録』
 

●空海が出会った南山の犬飼

 
狩場明神
地蔵院蔵「高野大師行伏図画」巻第4
空海は、飛んで行った三鈷(さんこ)を捜して、諸国を放浪します。
 そして、 大和国(やまとのくに)宇智郡(うちのごおり)で一人の狩人と出会い三鈷の行方を告げられるのです。

 この話は、今昔物語(こんじゃくものがたり)や金剛峰寺(こんごうぶじ)建立(こんりゅう)修行縁起(しゅぎょうえんぎ)に記されています。
 金剛峰寺建立修行縁起は、康保(こうほう)5年(968)に、書かれたとされています。今昔物語が成立したのは、平安末期とされていますので、金剛峰寺 建立修行縁起の方が原型に近いと思われ、今回は、主に、この金剛峰寺建立修行縁起をもとにして考えます。

(原文)
「以弘仁七年孟夏之此出城外経暦矣大和国宇知郡遇一人ノ猟者其形深赤長八尺許着小袖青衣骨高筋太以弓箭帯身大小二黒犬随従之則見和尚遇通問不審和尚踟蹰問 訊子細猟者云我是南山犬飼所知山地万許町於其中有幽平原霊瑞至多和尚来住自以助成追放犬令走之間、即失」

(読解文)
「弘仁(こうにん)7年(816)孟夏(もうか)の此(ここ)を以(もっ)て、城外に経暦(きょうれき)す矣(なり)。大和国宇知(ママ)郡にして、一人 の猟者に遇(あ)う、其(そ)の形、深赤く、長八尺(2m40cm)許(ばか)り、小き袖(そで)の青き衣を着たり。骨ね高く筋(す)ぢ太くして、弓箭 (ゆみや)を以(もっ)て身に帯(おび)す。大小二つの黒犬之(こ)れに随従(ずいじゅう)す。則(すなわ)ち和尚が通るを遇(あ)い見て不審(ふしん) に問う。和尚は踟蹰(ちちゅう)(ちゅうちょ)しつつ子細(しさい)を問いて訊(たず)ねた。猟者の云(いわ)く。我(われ)は南山(なんざん)の犬飼な り。山地万許(ばんきょ)町を知る所なり。其の中に於(おい)て幽平(ゆうへい)の原(はら)有り。霊瑞(れいずい)至(いた)って多し。和尚(おしょ う)来住(らいじゅう)したまへ。自(みずから)を以て助成(じょせい)せん。犬を追放(おいはなち)て走(はし)ら令(せ)るの間、即(すなわ)ち失 (うせ)ぬ」

 この猟者を、現在は、狩場明神(かりばみょうじん)、又は、高野明神(たかのみょうじん)、あるいは、百合野明神(ゆりのみょうじん)などと言って、高 野山(こうやさん)に祀ってあるわけですが・・・この明神は、空海以前には、存在した痕跡(こんせき)がなく、私は、空海の手によって、神格化された実在 の人間なのではないか?と考えています。

 この男が何者なのか?

●空海と南山の犬飼は、楊貴妃の墓を掘り起こした・・・。

 大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)・・・・・覚えておられるでしょうか?
 楊貴氏墓誌は、大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)大沢村で発見されまし た。
 空海が、猟者とあった所は、地名までは、書かれていませんが・・・同じ、大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)・・・すなわち、楊貴妃の墓とおぼし き物があった場所なのです。

 私は、空海と、この犬を連れた男が、楊貴妃の墓へ一緒に行ったのではないかと考えます。

 犬を連れ、弓箭を持っていますので、猟者とされていますが、彼は、自分の事を「南山(なんざん)の犬飼」と言っています。彼は、大和国の住民ではありません。
 南山とは、都から見た時の南の山という事で、熊野(くまの)とその周りの地域の山々を指します。
(例「南山月下結縁力 西刹雲中弔旅魂」藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』 より発心門での句)

 それから、犬は、昔から、狐の妖術を破るアイテムとされていました。
 覚えておられるでしょうか?
 任氏(じんし)の術を破ったのは、猟犬でしたし、玉藻前を追いつめたのは、犬追物(いぬおうもの)でした。

 この「南山の犬飼」・・・すなわち、「熊野の犬飼」は、おそらく、楊貴妃を生前からよく知っている人物で、楊貴妃を大切に想いながら、同時に、狐として、怖れていたのかもしれません。

 そして、楊貴妃の痕跡(こんせき)を求めて、たずねてきた空海に、この「南山の犬飼」は、狐として忌(い)み嫌われてきた墓に空海と一緒に向かい、これを皇帝妃として相応しいものとして改葬(かいそう)されるように、空海に依頼(いらい)したのではないでしょうか?

●犬飼町にある楊貴妃の墓?

 この空海と犬飼が出会ったという場所という言い伝えが、奈良県五條市犬飼町の転法輪寺にあります。楊貴氏墓誌が見つかったのが、現在の奈良県五條市大沢 町の五條西中学校の建っている周辺ですので、直線距離で約2.5km程離れた場所です。
 行ってみて驚いた事ですが、この転法輪寺は、明神塚、大師塚と呼ばれる2つの墳墓の上に建てられているのです。

 もし、「空海と南山の犬飼が、楊貴妃の墓を掘り起こした」という私の考えが正しく、そして、言い伝えが、正しいなら、このどちらかが、楊貴妃の墓であったかもしれませ ん。そして、もし、そうなら、おそらく、残りの一つは、犬飼の墓でしょう。

 本当に楊貴妃の墓か?・・そして、そうだとすれば、どちらが、楊貴妃の墓であったか・・・私に、調査する権限はなく・・・結論は、誰かが調査してくれる のを待ちましょう。

 写真を「犬飼山転法輪寺」に掲載しておきます。

 このうち、大師塚古墳は、庫裡の裏にある方形の古墳経12メートルで「南無大師遍照金剛天文二十一年(1552年)二月二十一日」と刻む石標がありま す。この年号が正しければ、現在確認されているなかで最も古い「御宝号」です(御宝号とは、真言宗で唱える一番短いお経の事で、遍照金剛は、空海を仏の徳 の具現者と見定めた師の恵果が贈った名前)。昭和16年(1941年)塚より須恵器、土師器、馬具、直刀、鏡玉などの副葬品が出土しました。このなかで須 恵器の草袋形土器は類例の少ないものとして著名で、調査はされたものの、所蔵先は不明だそうです。
 一方の明神塚古墳にも、大師塚古墳と同じく、南無丹生大明神」天文21年(1552年)と刻んだ石標があります。
参考 ウィキペディア 転法輪寺 (五條市) https://ja.wikipedia.org/wiki/転法輪寺_(五條市)

 それにしても、大師塚が掘り起こされたのが、昭和16年・・・・太平戦争の直前とは!!・・・いったい、どういう意味があり、どういう目的があって掘り起 こしたのでしょう?そして、中東アジアとの関連を連想させただろう草袋形土器・・・これの所蔵先がわからないというのは、とても残念な事です。

 これを楊貴妃の墓だと考えると、「楊貴氏墓誌」が楊貴妃の墓を表すもののだという私の最初の前提に矛盾を起こすのですが、この事は、後ほど、「楊貴氏墓 誌の謎」の中で考えます。

●空海が出会った田辺の稲荷神

 もう一つ、この「南山の犬飼」に似た伝説があります。

 空海の作ったもう一つの寺院「東寺(とうじ)」に伝わる「稲荷(いなり)大明神(だいみょうじん)流記(るき)」に書かれているお話です。

(原文)
稲荷大明神流記 眞雅記云ゝ
弘 仁七年孟夏之此大和尚斗藪之時於紀州田邊宿遇異相老翁其長八尺許骨高筋太内大權氣外示凡夫相見和尚快語曰吾有神通(道)聖在威徳也方今菩薩到此所弟子幸也 和尚曰於霊山面拝之時誓約未忘此生他生形異心同予有秘教紹隆之願神在佛法擁護之誓請共弘法利生同遊覺臺夫帝都坤角九條一坊有一大伽藍號東寺為鎮護國家可興 密教霊場也必々奉待々々面巳他(化)人曰必参會守和尚之法命等云々同 十四年正月十九日和尚忝賜東寺為密教道場也因之請來法文曼荼羅道具等悉納大経藏畢其後同四月十三日彼紀州之化人來臨東寺南門荷稲提椙葉率兩女具二子矣和尚 勸喜授興法味道俗歸敬備飯獻菓爾後暫寄宿二階紫(柴)守其間點當寺杣山定利生勝地一七ヶ日夜之間依法鎭壇法爾莊嚴然而圓現矣爲後生記綱目耳

(読解文)
稲荷大明神流記 真雅(しんが)記の云う
弘仁(こうにん)7年(816)の孟夏の頃、空海は修行中、紀州・田辺(たなべ)の宿(しゅく)で稲荷神の化身である異相(いそう)の老翁(ろうおきな) と出会った。身長約2メートル 40センチ(八尺)、骨高く筋(すじ)太くして、内に大權(だいけん)の気を含み、外に凡夫(ぼんぷ)の相を現していた。翁(おきな)は空海に会えたこと を喜んで言うには
「自分は神であり、汝(なんじ)には威徳(いとく)がある。今まさに悟(さと)りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努(つと)める 者になったからには、私の教えを受ける気はないか」
空海はこう述べた。
「(中国の)霊山(れいざん)において、あなたを拝(おが)んでお会いしたときに交わした誓約(せいやく)を忘れることはできません。生の形は違ってい ても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛(りゅうせい)させたいという願いがあります。神様には仏法の擁護(ようご)をお願い申し上げます。都の西 南、京の九 条に東寺という大伽藍があります。ここで国家を鎮護(ちんご)するために密教を興(おこ)すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しくだ さ い」と仲むつまじく語らい会って、神の化身と空海は盟約(めいやく)を結んだ。
弘仁(こうにん)14年(823)正月19日。空海は天皇より東寺を賜(たまわ)り、之をうけて、法文、曼荼羅、道具等を運び込み、経蔵を納めて、真言の道場とした。同年4月13日。紀州で出会った神の化身が椙(すぎ)の葉を提げ稲 を荷ない、ふたりの婦人とふたりの子供を伴(ともな)って東寺の南門に再びやって来た。空海は大喜びして一行をも てなし た。心より敬(うやま)いながら、神の化身に飯をお供(そな)えし、菓子を献(けん)じた。その後しばらくの間、一行は八条二階の柴守(しばのかみ)の家 に寄宿(きしゅく)したが、その間(あいだ)空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日のあいだ祈りを捧(さ さ)げて神に鎮座(ちんざ)していただいた。この事が現在まで伝わる由縁となっている。

●南山の犬飼と田辺の稲荷神は同一人物だ!

 この翁と 南山の犬飼 とは、田辺と大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)と場所は違っていますが・・・同じ 弘仁7(816)年の夏 に出会ったとされ、「身長約八尺 、骨高く筋太くして 」という身体的特徴から同一人物でしょう。

 2m40cmというのは、ちょっと信じられませんが、見上げるような大男で、肌が赤黒く、彫りが深く骨張って、 筋肉質という身体特徴、そして、大師塚から掘り起こされたという草袋形土器から・・・私は、翁を安禄山(あんろくざん)と同じような・・・中東系 のアーリア人(アラブ・ペル シャ人)ではないかと想像します。

 田辺は、口熊野・・・すなわち、南山です。そうだとすれば、「修業縁起」と「稲荷大明神流記」の前半部は、全く、同じ事を言っている事になります。「縁 起」と「流記」は、一連の物語であるとみなすべきでしょう。すなわち、空海は、この田辺を本拠とする犬飼・稲荷神と行動を供にし、大和国宇智郡に行ったと 想像されます。

 この「稲荷大明神流記(いなりだいみょうじんるき)」から、「南山の犬飼」が、霊狐(れいこ)を祀る人間であることが明らかだと思います。・・・また、 「南山の犬飼」すなわち、翁の姿をした「稲荷神」にとって、空海は初対面であったけれど、空海にとって、「稲荷神」には、以前、中国で会っており、そのと きに何らかの約束を結んでいること。そして、「生の形は違ってい ても」と言っている事から、空海が中国で会った時の「稲荷神」は、翁の姿でなかったこ とが読み取れます。

 この翁と思われる伝説は、田辺の高山寺や龍神温泉にも残されています。その事は、後ほど、「楊貴妃隠棲1」と「楊貴妃隠棲2」の中で追求しましょう。

考察
稲荷大明神流記は、文面に示すように空海の弟で、十大弟子の一人とされている真雅(しんが・延暦20年(801)〜元慶3年(879))が伝えたものと書かれています。

にもかかわらず、現代の学者の多くが、これを否定し、鎌倉時代の中頃に創作されたものだとしています。
この理由として、空海の稲荷灌頂説話が、「僧都伝」・「御遺告」・「修業縁起」に書かれず、平安末期に製作されたとされる「大師御行状集記」・「弘法大師行 化記」・「弘法大師御伝」にも見えないこと、しかし、鎌倉時代中期成立と考えられる「荷田講式」や正慶元年(1332)に書かれたと奥書のある「稲荷記」には、同じような話があり、鎌倉時代中期には、すでに、空海の稲荷灌頂説話が あったと考えられる事・・・・から、鎌倉時代前期〜中期に「修業縁起」の「南山の犬飼」の話に、熊野信仰ブームの影響が加わって 創作されたとしているようです。
参考 「稲荷大明神流記」の成立 岡田荘司 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001928675

しかし、「犬飼・稲荷神」の正体が、私の想像通りだとすると、空海は、この人物の存在や出来事を記録から隠そうとしたでしょう。

 「南山の犬飼」との会合の話は、空海の行状の初期の記録としては、「僧都伝」や「御遺告」に書かれず、「修業縁起」にしか見る事が出来ません。稲荷神灌頂の話が、弟である真雅の「稲荷大明神流記」の記録以外に書かれていないとい うのも、同じように考えると理解出来るのではないでしょうか?

私は空海の稲荷灌頂説話は、確実に、平安時代末期には存在していたと考えます。
なぜなら、平安時代末期の熊野信仰の流行は、始めから、稲荷信仰、密教(空海)信仰が、渾然一体となって成立したものであったと考えられるからです。
熊野信仰が稲荷信仰と一体である事は、熊野参詣の初期の記録である「為房卿記」の中に、すでに見られますし、熊野信仰が密教(空海)と密接に結びついてい る事は、初代の熊野検校である「増誉(ぞうよ)」が、空海の妹、又は、姪の息子である「円珍」の興した天台寺門派から出ている事から間違いありません。
ちなみに、稲荷灌頂説話は「円珍」にもあり、「二十二社註式(文明元年(1469)に吉田兼倶が撰したとされる)」には、 円珍が、弘仁12年(821)に熊野・石田川の畔の稲羽里で、稲荷神と出会ったと書かれています。これは、空海の行跡を円珍に仮託したものでしょう。なぜ なら、円珍は、弘仁5年(814)の生まれで、弘仁12年(821)には、まだ7歳の子どもに過ぎず、空海に連れられて、空海と一緒に稲荷神と会ったもの でないかぎり、この記述は虚偽であると考えられるからです。
私は、この説話が、天台座主であった円珍の真言門戸に対する対抗心を表すと同時に、伯父、又は、大叔父である空海に対する円珍の憧憬であろうと考えます。

注釈・参考
白米の事を銀シャリというように、稲は骨を表すとい う。『渓嵐拾葉集 (けいらんしゅうようしゅう)』には、この稲荷神の持って来た稲とは、骨であると いう話が掲載されている。
「弘法大師(こうぼうだいし)、如意宝珠(にょいほうじゅ)をもって稲荷の峰に納められる・・・。稲荷神の来現(らいげん)の相 貌(そうぼう)は老翁(ろうおう)、稲を荷い、大師の御前(おんまえ)に影現(えいげん)す。その詞(ことば)に「過去(かこ)七仏(しちぶつ)の舎利 (しゃり)、持ち来れり」と云えり。稲は舎利の本源(ほんげん)也。ゆえに『大論(だいろん)』に云う。「古仏の舎利、変じて米と成る」と云えり。」  
『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』鎌倉時代、比 叡山西塔北谷の別所黒谷にいた光宗(1276〜1350)による仏教書

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龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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