楊貴妃隠棲3(楊貴妃の熊野信仰)
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総合目次
#はじめに#
はじめに
中国で伝えられる楊貴妃熊野渡来説
熊野は蓬莱である(徐福の熊野渡来伝説)
龍神温泉絵図
龍神温泉絵図の解析
ヤウキヒ桜に関する私の考え
#史歴の中の楊貴妃#
開元の御代(玄宗皇帝の時代)
楊貴妃の誕生(息子の嫁を簒奪した玄宗皇帝)
安禄山(楊貴妃におむつを穿かされた男)
馬嵬事変(記録に残された楊貴妃の死の顛末)
楊貴妃の死の謎(楊貴妃生存の可能性)
#野馬臺詩の謎#
謎の預言書・野馬臺詩
野馬臺詩の解読(安史の乱が書かれた野馬臺詩)
野馬臺詩の書かれた理由(野馬臺詩は楊貴妃が書いた!)
#九尾の狐の謎#
玉藻前の伝説
詩聖杜甫が記録した楊貴妃像
沈既済の書いた狐の美女の物語
白居易の「任氏行」「古冢狐」
大江匡房の狐媚記(日本最初の九尾の狐の記録)
玉藻前はなぜ作られたのか
#吉備大臣入唐伝説の謎#
龍神村の安倍晴明伝説
安倍晴明は狐の子
安倍晴明前世譚
安倍晴明前世譚と吉備入唐伝説
史歴の中の吉備真備と阿倍仲麻呂
吉備伝説の解釈
阿倍仲麻呂と楊貴妃
皇族達の熊野参詣の始まり
熊野信仰に隠れる楊貴妃の伝説
#空海伝説の謎#
龍神温泉の空海伝説
吉備真備の母の記録「楊貴氏墓誌」
空海と白居易と橘逸勢
高野山縁起1(飛行三鈷の伝説)
高野山縁起2(南山の犬飼と稲荷神)
高野山縁起3(丹生都姫)
三体月伝説の本当の意味
キツネとヤタガラスが語る楊貴妃信仰
吒枳尼天は、なぜキツネか?
稲荷神は、なぜキツネか?
十一面観音と楊貴妃観音
熊野三山のキツネ信仰
輪王灌頂(天皇の吒枳尼信仰と熊野三山信仰)
骸骨本尊(弾圧された一派、真言立川流)
理趣経(男女の愛欲を肯定する経文)
高野山女人禁制の謎(女性の解脱を認めた真言密教がなぜ?)
美福門院得子の高野山入山
#渡来後の楊貴妃#
野馬臺詩の波紋1(紀伊の国に運ばれた楊貴妃)
野馬臺詩の波紋2(信じられなかった楊貴妃の報告)
橘奈良麻呂の乱
遣渤海使・小野田守(小野田守は、なぜ、 遣渤海使に選ばれたのか?)
楊貴妃隠棲1(牟呂の国に残る楊貴妃上陸の痕跡)
楊貴妃隠棲2(龍神村に潜んだ楊貴妃)
楊貴妃隠棲3(楊貴妃の熊野信仰)
馬嵬改葬(楊貴妃の韈の記録)
小野田守の帰還(無視され続けた小野田守の報告)
吉備真備の復権(国際緊張の中で浮かび上がってきた吉備真備の人力)
長恨歌(日本に来た玄宗皇帝からの密使)
楊貴氏墓誌の謎(楊貴氏墓誌は、なぜ作られたか?)
由利霊狐御子1(南山の犬飼が百合野明神と呼ばれる理由)
由利霊狐御子2(楊貴妃以前に熊野に祀られていた神)
由利霊狐御子3(熊野に祀られた結神の正体)
吉備由利の昇殿(孝謙上皇に仕えた吉備真備の妹)
密教法師弓削道鏡(孝謙上皇に愛された怪僧)
高野天皇〔孝謙上皇〕の復権(反旗をひるがえした上皇)
恵美押勝の乱1(奈良時代に起った宇宙の異変)
恵美押勝の乱2(楊貴妃のもたらした兵器)
恵美押勝の乱3(恵美押勝の乱外伝)
称徳天皇と吉備由利1(重祚した高野天皇と由利の友情)
称徳天皇と吉備由利2(吉備真備の昇進)
宇佐八幡神託事件1(道鏡事件と法均〔和気広虫〕)
宇佐八幡神託事件2(称徳天皇の激怒と宣命)
宇佐八幡神託事件3(誰が称徳天皇の心を変えさせたか?)
宇佐八幡神託事件4(再び、称徳天皇の宣命)
称徳天皇の崩御1(天皇の代行をおこなった吉備由利)
称徳天皇の崩御2(称徳天皇の死にまつわる噂)
称徳天皇の崩御3(称徳天皇の死と藤原百川の暗躍)
吉備真備の辞任1(策謀に負けた吉備真備)
吉備真備の辞任2(吉備真備の辞表文)
井上内親王事件1(奇妙な吉備由利の死の記録)
井上内親王事件2(「水鏡」に見る井上内親王事件の顛末
井上内親王事件3(井上内親王事件はなぜ起ったか?)
怨霊(桓武天皇が怖れた怨霊の正体)
流転(なぜ、桓武天皇は遷都を行い、空海を唐に送ったか?)
#おわりに#
楊貴妃は、どんな容姿の女性であったか?
あとがき
付録1 犬飼山転法輪寺
付録2 伏見稲荷と泉涌寺
付録3 高山寺と伊作田稲荷神社
付録4 江談抄・吉備入唐の間の事
付録5 長恨歌・読み下し文・訳文
付録6 熊野権現縁起(五衰殿)
付録7 熊野権現垂迹縁起
#参考のために・・・#
読者からの意見・感想
まとめ・龍神楊貴妃伝の主な仮説とその根拠
●紀伊の国の人々に報償を与えた称徳(孝謙)天皇
後の話になりますが、孝謙天皇が、再び、称徳天皇(しょうとくてんのう)として返り咲いた直後、紀伊国に行幸(ぎょうこう)しています。(天平神護(て んぴょうじんご)元年(765)10月)
紀伊国の調(ちょう)や庸(よう)を免除し、名草(なぐさ)・海部(かいふ)の二郡は田租(でんそ)も免除しました。また、紀伊の国守を始め、多くの人 々に官位を与え、昇進させています。特に、牟婁(むろ)郡出身の采女(うぬめ)、
熊野直(く まののあたえ)広浜(ひろはま)
については、地方出身の女性と しては異例の従四位(じゅうよんい)まで昇進させています。
なぜ、称徳天皇は、恵美押勝の乱の後始末もついていないこの時期に・・・・紀伊国(きいのくに)に行幸(ぎょうこう)する必要があったのでしょう?
私は、恵美押勝の乱の鎮圧(ちんあつ)に楊貴妃が関与していて、称徳天皇の紀伊国の行幸は、称徳天皇の紀氏に対する感謝の念を表わすために必要な行動で はなかったかと思います。
●傷心の日々をおくっていた楊貴妃
話を戻しましょう・・・・藤原仲麻呂が恵美押勝と改名した頃、楊貴妃は龍神村に匿(かくま)われ、傷心(しょうしん)の日々を送っていました。
自分の行動が、自分を楊貴妃と知っている数少ない理解者である大伴古麻呂(おおとものこまろ)・・・・そして、協力してくれようとしていた橘奈良麻呂 (たちばなならまろ)や道祖王(ふなどおう)、在日中国人(秦氏)や数多くの仲間の生命を失わせてしまった・・・・・。この事は、楊貴妃を苦しめたでしょ う。
玄宗皇帝から、心ならずも死刑宣告を受け、国際犯罪人として扱われる楊貴妃は、表舞台に出る事も出来ず、自分の言う事が真実だという事を証明出来る手段 もなく・・・・ただ、隠れ棲(す)むしかありませんでした。
しかし、仙境(せんきょう)を思わせる龍神村の自然の美しさや良質の温泉は、楊貴妃の傷ついた心を癒(いや)してくれていたでしょう。そして、唐の国の 情勢を知り、自分の身の安全を確認した後には、龍神村を出て、救いを求め、蓬莱(ほうらい)(熊野)に行游(ぎょうゆう)したのではないでしょうか?
●熊野権現垂迹縁起に書かれた楊貴妃の熊野参拝
楊貴妃隠棲1
で述べたように「
熊野権現垂迹縁起
(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)」が楊貴妃の行跡(ぎょうせき)を表 したものだとすれば、その道程は、切部山の西の海の北の岸( 切部(きりべ)の港)を出立し、まず、新宮に入り新宮の南の神蔵(神倉(かみくら))、新宮東の阿須賀(あすか)の 社、阿須賀の社の北の石淵の谷(貴禰谷神社(きねがたにじんじゃ))を回った後、熊野川を遡(さかのぼ)って、本宮大湯原(大斎原(おおゆのはら))を 訪 れた事でしょう。
このルートは、特別な修行者以外の人物による最初の熊野参詣の記録と言われる「扶桑略紀(ふそうりゃくき)」延喜 (えんぎ)7 年(907)に記録された宇多法皇の熊野参詣ルートと酷似(こくじ)しています。この宇多法皇の熊野参詣では、「切尾湊(きりおみなと)より船に御 (ぎょ)し、熊野神社に赴(ゆ)き向かう」(
「熊 野古道」小山靖憲著 岩波新書
より)とあります。切部の港と切尾湊は同じだと思われ、そうだとすれば、宇 多法皇は、楊貴妃の参詣ルートを意識して熊野参詣を行ったのでしょうか?
龍神村から田辺に向かう田辺龍神線の傍らを流れる会津川に、空海と稲荷神の遭遇伝説のある高山寺からすぐ川下に、切戸橋という橋がかかっています。切戸橋の戸は「へ」とも読む事が出来ます。そうすると、この会津川の河口付近を切部の港と呼んでいたのかもしれません。
●速玉神と熊野牟須美神に封戸を与えた称徳(孝謙)天皇
現在の本宮と新宮にあたる祭神の最も古い資料は、「新抄格勅符抄(しんちょうきゃくちょくふしょう)」に掲載(けいさい)された大同(だいどう)元年 (806)の文章だと言われています。これによれば、現在舞台としている時(とき)からそう遠くない・・・・・天平神護(てんぴょうじんご)2年 (766)に、称徳(孝謙天皇重祚)天皇は、速玉神(はやたまかみ)と熊野牟須美神(くまのふすみかみ)にそれぞれ
4戸 (こ)の封戸(ふこ)
を与えています。
おそらく、楊貴妃が訪れたのも、この速玉神と熊野牟須美神であったでしょう。
私は、この速玉神と牟須美神は、日本を造ったと言われる二柱の兄妹神、イザナキとイザナミを表したものであったと考えます。
熊野にイザナミの墓がある事は、日本書紀に登場します。日本書紀は養老(ようろう)4年(720)に完成しています。すなわち、この伝承(でんしょう) は、楊貴妃が歴史に登場するより古く・・・・楊貴妃が熊野を訪れた時に、熊野には、イザナキとイザナミが祀られていたことでしょう。
●熊野牟須美神は那智大社ではなく本宮大社であった?
牟須美神(ふすみかみ)といえば、現在、那智大社(なちたいしゃ)の主神で、これを考えると、この時、封戸(ふこ)を与えられたのは、那智大社の事のよ うに思えますが、この天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)の熊野牟須美神(ふすみかみ)は、那智大社の事ではないかもしれないと言われています。
なぜなら、この後の時代、平安時代中期延長(えんちょう)5年(927)の全国の主要な神社を列記したものに「
延 喜式(えんぎしき)」神名帳(じんみょうちょう)
という書がありますが・・・ここに「熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)」「熊野(くまの)早玉 神社(はやたまじんじゃ)」の記載(きさい)はありますが、
那智の記載はない
からです。
もちろん、この奈良天平時代にも、神名帳(じんみょうちょう)には記載されていない数多くの神社があったと思われ、那智神社も、この時代に存在していた かもしれませんが・・・・朝廷から封戸(ふこ)が与えられていた神社が神名帳には記載されていないとは考えられません・・・・やはり、この時の熊野牟須美 神(ふすみかみ)は那智大社の事ではないと考えるべきでしょう。
熊野権現垂迹縁起の道程から見ても、楊貴妃は、那智には向かっていません。
ですから、楊貴妃の時代の熊野牟須美神は、現在の本宮(ほんぐう)であると思われるのですが・・・
また、この問題は、章をすすんでから、「由利霊狐御子2」の中でもう一度考えましょう・・・。
●楊貴妃は熊野の神に何を祈ったか?
いずれにせよ・・・・熊野牟須美(ふすみ)神、速玉(はやたま)神の両神社は、孝謙天皇が、称徳天皇として復活した翌年に封戸(ふこ)が与えられていま す。私は、この封戸が与えられた理由が、楊貴妃がこの地を訪問していたからではないか?と思われるのです。
楊貴妃は、熊野の神を参詣(さんけい)し、唐国の平穏(へいおん)と無実のまま殺されていった大伴古麻呂達の汚名(おめい)が晴らされる事を祈ったにち がいありません。
参考
神道・神社史料集成 紀伊神社一覧
神封(じんぶ)部合四千八百七十六戸
(略)
熊野牟須美神 四戸 紀伊 天平神護二年奉充(ほうじゅう)
(略)
速玉神 四戸 紀伊 神護二年九月廿四日奉充
(略)
国学院大学
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/jinjastate52.html
延喜式神名帳紀
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)とは、延長(えんちょう)5年(927年)にまとめられた『延喜式(えんぎしき)』の巻九・十のことで、当 時「官社(かんしゃ)」とされていた全国の神社一覧である。
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 延喜式神名帳
紀伊国の式内社(しきない しゃ)(延喜式に書かれた神社)一覧
ウィキペディア 紀伊国の式内社(しきないしゃ)
http: //ja.wikipedia.org/wiki/紀伊国の式内社一覧
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どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!
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