龍神楊貴妃伝

龍神温泉絵図の解析

 龍神温泉絵図と現代の龍神温泉を比べてみましょう。

●何種類かある龍神温泉絵図

 龍神温泉の絵図は、人気があったのか・・・。同じような構図で、何回か描き直されています。
  少なくとも、私の把握しているもので、3種類あります。・・・幕末の絵図は、「龍神温泉絵図の発見」で紹介しましたので、残り2つを紹介しておくと、一つ は、江 戸時代末期1851年に出版された「紀伊の国名所絵図」に描かれたもの・・・もう一つは、明治時代のエッチングによるものです。この2つの絵は、時代や描 き方は違うのです が、構図はとても、よく似ていて、私は、明治時代のエッチングの龍神温泉の図の方は、実際の龍神温泉を見て描いたのではなく、紀伊の国名所図絵の龍神温泉 図を見て、これを 参考に描いたのではないかと想像しています。
 絵の描き方や、詳しさは、最初に見つけた幕末の頃に描かれた龍神温泉の図の方がレベルが高いと感じますので、全体的説明には、これを 使い、下記の「紀伊の国名所絵図」や「明治時代のエッチングの図」を補佐的に使用して解析します。
龍神温泉の図
「明治の龍神温泉のエッチング1900年頃」
龍神温泉の図
「紀伊の国名所図絵の龍神温泉1851年発行」

●絵図に描かれた龍神温泉旅館街

龍神温泉街
「龍神温泉旅館街」
 幕末の絵図には、温泉宿の名前も書かれていますが、「上の御殿」「下の御殿」「有の木屋」「さかいや」「萬屋」「若山屋」など、現在 でも龍神温泉で見かける屋号が並んでいます。龍神の旅館街の多くが、古くから、代々、この地で温泉宿として営業してきたのでしょう。
 営業している場所も、ほとんど、現在と変わりませんが、無くなっている旅館もあり、上の御殿や下の御殿は、場所が変わっています。

●江戸時代から続く温泉場

 現在の龍神温泉で、この絵図の面影をもっとも感じさせるのが、ここ10年程で、つかわれなくなった温泉場の風景ではないでしょうか?

 この元湯は、少なくとも200年は、ほとんど、姿を変えず伝えられてきたものだと わかります。

 幕末の絵図を見ると、「御殿湯」、「女湯」、「男湯」、「タカ湯」、「キツ湯(傷湯?)」などと分かれており、さまざまな身分や立場の人間が、 この龍 神温泉で湯治をしていた事がわかります。1851年に出版された「紀伊の国名所図会」では、男湯、女湯の区別はなく、男女が共に、同じ湯船に入っていま す。紀伊の国名所絵図と幕末の絵図の2枚が描か れる間に混浴がなくなったのでしょうか?
龍神温泉元湯の図
「幕末の温泉絵図の温泉場」
龍神温泉元湯の図
「紀伊の国名所絵図の温泉場」
龍神温泉元湯現状
「現在の使われていない温泉場」
龍神温泉元湯の図
「紀伊の国名所絵図の温泉場の中」

●霊場として、崇拝されていた龍神温泉

 温泉絵図には、現代の龍神温泉では、失われたものが、幾つかあります。
 私は、その中で、一番失われたものは、龍神温泉場の霊場としての意識だと感じます。絵図の中には、たくさんの鳥居と祠が描かれていますが、現在の龍神温 泉にはありません。現在の龍神温泉で霊場であったと感じさせるのは、温泉寺と元湯の前に置かれた新しい難陀龍王の社だけです。
 
 しかも、絵図で見ると、難陀龍王の社は、現在の元湯の駐車場の下の薮の辺りにあったようで、絵図を見ると、そぞろ歩きしていた人々が、お参りをしている 姿が描かれています。

 その他、江戸時代の龍神温泉には、弘法大師作と伝わる薬師如来を祀った薬師堂があり・・・それから、温泉寺と薬師堂の上には、和哥宮、南龍公、弁財天が 並んでいます。今でも、南龍公の社殿のあった跡には、写真のような土台の石組みが残っていますが、これから想像すると、幅4〜5mはある大きな社であったでしょう。

 それから絵図には、役行者の旧跡として、行者堂が描かれています。地元の人に訊ね歩いたのですが、行者堂については、場所もわかりませんでした。

 龍神温泉が、このような霊場としてのたたずまいを失ったのは、いつ頃でしょうか?地元の人々は、明治17年(1884)に起った大火災だと言います。し かし、許可を得ることが出来なかったので、掲載は出来ないのですが・・・熊野歴史懇話会の出版した「繪葉書でみる大正〜昭和初期の龍神村」を見ると、 大正〜昭和初期の龍神温泉は、まだ、霊場と呼ぶに相応しい雰囲気を残していた事がわかります。火災の後も、多くのものが残り、あるいは、再建されたのでは ないでしょうか・・・・?

 これは、私の想像ですが・・・・龍神温泉が、霊場としての威厳を失ったのは、戦後の高度経済成長の時代ではなかったでしょうか?
行者堂
「役行者/行者堂」
難陀竜王
「難陀竜王の社」
南龍公社殿跡
「南龍公社殿の跡」

●龍神村の比丘尼伝説と楊貴妃

 「龍神村史下巻」第四編第二章「伝説」の中に、「比丘尼のたたり」という題で・・・温泉寺の裏地に、「若宮」と言われる墓があり、これは、龍神温泉に宿 泊していた美しい比丘尼 の事で、欲望に走った村の若い者達に、しりふり坂で襲われ 殺されて、それが、先にふれた明治の大火の遠因になったという物語が書かれています。そして、しりふり坂には「開柳の墓」と伝えられるものがあると書か れていま す。

 私は、龍神温泉の「リュウジン」は、楊貴妃をあらわす「柳人」の意味だと想像しています。「龍神村史」に掲載された「若宮」の別名・・・「開柳」は、同 じ意味ではないでしょうか?・・・ひょっとすると、本当に書かれているような事件もあったかもしれませんが・・・それより、この比丘尼伝説の裏には、楊貴 妃のイメー ジが隠れていると私は考えます。

 その一つの根拠として、幕末の絵図には、「南龍公」を挟んで「弁財天」と「和哥宮」があり、「紀伊の国名所図 絵」にも「ワカ宮」が描かれています。「若宮」は、江戸時代には、すでに祀られていたと考えるべきでしょう。

 「南龍公」は、紀州徳川家の祖である徳川頼宣(よりのぶ)の神号です。
 「若宮」は、熊野三山にも祀られていて、これは「天照大神」を表すとされています。

 私は、「九尾のキツネ伝説の謎」と「吒枳尼天は、なぜキツネか?」で、楊貴妃が「キツネ=ダキ ニ」と呼ばれる美女であった事を証明しています。
 このサイトでは、近代の話までを入れていくと、話がゴチャゴチャしすぎて、実相がわからなくなるため触れてはいないのですが、このキツネの美女(ダキ ニ) は、 その実体が絶世の美女だからでしょうか・・・中世では、「天照大神」も「弁財 天」も 「ダキニ天」と同一視されるようになりました。(これについて調べたい方のために参考書として、「真 言立川流 藤巻一保著 学研」をあげておきます。それ から、検索サイトでは、信頼に足る サイトは見つからなかったのですが、それについてたくさんの情報をみつける事が出来ます。あまり良いものはないですが、参考のため、リンクを張っておきま す。)

 「ワカ宮」と「弁財 天」は、共に、楊貴妃の化身であり、「南龍公」を守っていると考 えることが出来るでしょう。

 現在、「南龍公」も「ワカ宮」も「弁財天」の祠も、存在していません。
 「開柳の墓」も、村史には、訪れる人が絶えなかったと書かれていますが、今は、聞いても、知る人もありません。
 龍神温泉は、こういった楊貴妃信仰を忘れてしまったとき、霊場としてのたたずまいを失くしてしまったのではないでしょうか?

 ※この「開柳の墓」については、また、「楊貴妃隠棲2(龍神村に潜んだ楊貴妃)」で引き続き、検討をします。

温泉寺の図
「幕末の温泉絵図の温泉寺」
温泉寺の図
「紀伊の国名所絵図の温泉寺」

参考
若宮が天照大神だというこ とについて 熊野本宮大社 熊野本宮大社の創祀  http://www.hongutaisha.jp/shrine.html

ダキニ天と天照大神について 狐と瀬織津比v(其の七) http://dostoev.exblog.jp/15007971/
「仏教世界において、大日如来こそ天照大神の垂迹とされてきたのだが、実は 大日如来は深淵の理のような存在で形を成さないもの。その形として、神と化身して働くという「和光同塵」という考えが登場した。つまり大日如来の代わりと して着目されたのがダキニ天であり、それが天照大神と習合されたのだという。」

ダキニ天と弁財天について 千魔万来 狐とダキニ天 http://plaza.rakuten.co.jp/hyakkiyakou/13007/
「さらにダキニがエンマ天供から独立していき、今度は宇賀弁財天との習合がはじまりました。弁財天と密接な関係の蛇とも習合し、次のイメージが出来あがっ てきました。弁財天―蛇―狐―ダキニ天、狐も蛇もいずれも、穀物神・農耕神でしたから、より習合が進みました。」

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どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

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