●空海が楊貴妃を祀った事が、吒枳尼をキツネの美女にした!
吒枳尼信仰は、空海によって、日本に持ち込まれました。日本においては、吒枳尼天(だきにてん)と呼ばれ、密教の教主である大日如来
(だいにちにょら
い)の化身とまで呼ばれるまで崇(あが)めら、白い霊狐(れいこ)に乗った天女の姿として描かれ、稲荷神(御饌津神
(みけつかみ))と同一視されています。
しかし、吒枳尼(だきに)とは、もともと、インドの悪鬼(ダーキニー)で、人間の死を察知(さっち)して心臓を喰らう夜叉(やしゃ)の事です。
空海が中国から持ち帰った胎蔵界曼荼羅の中にも、3人の夜叉として描かれています。絵を見てもキツネのイメージはどこにもありません。(ここで、なぜ、
夜叉が3人なのか?という理由については、「三体月伝説の本当の意味」を読んで、自分
で考えてください。)
なぜ、これが、キツネに乗った美女に変化したのか?
いろいろな文献を読みあさりましたが、納得のいく説明は、どこを捜しても見つかりませんでした。
もともと、仏教において、吒枳尼は、大日如来(だいにちにょらい)が化身した大黒天に調伏され、仕えるように
なったとされ(出典は、『大日経』の注釈書
である『大日経疏』にあります)大日如来の使いとされていました。
空海が作り出した高野山の壇上伽藍(だんじょうがらん)は、金剛界(こんごうかい)・胎蔵界(たいぞうかい)の両部(りょうぶ)マンダラの世界を表現し
ようとしたものと言われています。その中心の本蔵(ほんぞう)が大日如来(だいにちにょらい)です。
私は、空海は、大日如来の化身として、楊貴妃を高野山の中心に祀(まつ)ったと考えます。
楊貴妃は、「楊貴妃は、どんな容姿の女性であったか?」に述べるように、生前
からその美しさを「西王母」と讃えられていました。
「西王母」は、中国における太陽と月の支配者です。「大日如来」は、宇宙空間を遍く照らす太陽ですから、「西王母」と同体と考えられます。おそらく、空
海が楊貴妃
を「大日如来」の化身として祀ったのも、楊貴妃が「西王母」と同一視されていたからでしょう。
その西王母の使い
が「九尾の狐」であり、その伝承が、紀元前の漢の時代には、すでに始まっていた事は、「キツネ
とヤタガラス」に示しました。
また、「詩聖・杜甫が記録した
楊貴妃」で述べたように、楊貴妃は、その死の直後から、褒姒・妲己と呼ばれていました。そして、「玉藻前はなぜ作られたのか?」で述べたように、妲己は、
楊貴妃の時代以前から、「九尾の狐」と呼ばれていま
した。
楊貴妃は、「キツネ」と呼ばれる運命にありました。楊貴妃には、生きているときから、「キツネ」だという噂がたっていた事でしょう。
おそらく、吒枳尼(だきに)が、大日如来の眷属であった事・・・そして、吒枳尼(だきに)と九尾の狐・妲己(だっき)の語呂合わせが、楊貴妃と吒枳尼を
結びつけたのでしょう。
私は、これが「吒枳尼」を「白い霊狐に乗った天女」の姿に変える原因を作ったのだと考えます。
●吒枳尼が、「玉藻前」をインド伝来の「三国妖狐」にした!
「吒枳尼」は、インドで生まれ、中国に渡り、そして日本に伝来しました。
私は、これが逆に、「九尾の狐」伝説に影響を与え、「九尾の狐」を、インド・中国・日本と渡り歩いた「三国妖狐」へと変貌させたのだと考えます。
●平家は、楊貴妃を信奉していた。
さて、吒枳尼天法は、中世には、さかんに信奉(しんぽう)されました。
例えば、平清盛(たいらのきよもり)が、吒枳尼天を信奉(しんぽう)した事が「源平盛衰記(げんぺいせ
いすいき)」に書かれています。
平清盛(たいらのきよもり)が、本当に、吒枳尼天を信奉(しんぽう)したかどうかは、疑いを持たれるところですが、清盛が、九尾の狐・玉藻前(たまもの
まえ)のモデルとなった美福門院(びふくもんいん)得子(なりこ)を首謀者(しゅぼうしゃ)とする「保元(ほうげん)の乱」「平治(へいじ)の乱」で権力
を伸ばし、「吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)」を描かせた後白河法皇とその権力の座を争ったのは紛れもない事実です。
平家(桓武平氏(かんむへいし))は、空海や橘逸勢(たちばなのはやなり)を唐の国に送り込んだ桓武天皇(かんむてんのう)を祖としています。
また、平清盛(たいらのきよもり)は、大火によって失われた高野山の金堂(こんどう)を立て直し、自分の血を混
ぜ、彩色した曼荼羅(まんだら)「血曼荼
羅」を
納めたと伝わります。これらのことを考えるならば、平清盛も、また、熱心な「楊貴妃信奉者」であり、平家全体に、その思想が広がっていたのではな
いかと想
像されます。
龍神村には、平維盛(たいらのこれもり)が隠れ棲んだという伝説も残されています。平維盛が隠れ棲ん
だ理由も、この楊貴妃信仰があったかもしれません。
●山口の楊貴妃伝説は、平家が作った。
私は、山口・油谷(ゆや)の「楊貴妃伝説」は、平家が持ち込んだものではないか?と考えています。
油谷は、平清盛の側近であった松浦高俊(まつうらたかとし)が流罪(るざい)にされた場所です。お
そらく、
油谷の「楊貴妃伝説」は、この松浦高俊が持ち込んだものでしょう。後に、高俊の娘は、平知貞(たいらのともさだ)に嫁ぎ、源氏の迫害を怖れて、「安倍」の
性を名乗ったようです。(※松浦氏は、もとは、安倍晴明の土御門(つちみかど)家と同族であったらしい・・・)ちなみに、今の総理大臣である安倍晋三(あ
べしんぞう)氏は、その一族であるそうです。
●熱田の楊貴妃伝説は、源氏が作った。
山口の楊貴妃伝説に触れたので、ついでに、熱田(あつた)の「楊貴妃伝説」についても触れておきます。
熱田神宮(あつたじんぐう)は、中世には、朝廷と深い関係にあったようです。
源頼朝(みなもとのよりとも)の母である由良姫(ゆらひめ)は、熱田大宮司
(あつただいぐうじ)であった藤原季範(ふじはらのすえのり)の娘でした。
この藤原季範の従兄弟(いとこ)に、江談抄の筆記者である藤原実兼(ふじ
わらのさねかね)がいます。
詳しく言えば、藤原季範の父が季兼、実兼の父が季綱で、この季兼と季綱が、兄弟です。実兼は、伯父である季兼から、兼の一字をいただいています。藤原季範と藤原実兼の間には、密接な関係がうかがえます。
実兼の姉妹(きょうだい)が、鳥羽院(とばいん)の乳母(うば)である藤原悦子
(ふじはらのえつし)で、それから、「平治の乱」で命を落とした「信西(しんぜい)」は、実兼の息子だと言われています。
このような関係にある藤原季範は、当然、楊貴妃渡来事件の事を聞いていたでしょう。
熱田の楊貴妃伝説は、このような経路から、持ち込まれたと考えられます。
後には、源義経が熱田の地で元服したと伝わります・・・・言わば、熱田神宮の「楊貴妃伝説」は源氏の系統の「楊貴妃伝説」と言えるでしょう。
龍神村を支配した龍神氏は、源氏の出で、以仁王を担ぎ、平家と戦った(怪獣・鵺(ぬえ)退治でも有名な)源頼政の子孫と伝えられています。源氏が龍神村
に流れ着いたというのも、楊貴妃信仰と関連があるのかもしれません。
源平の戦いで、平家が滅亡した「壇ノ浦の戦い」で勝敗を決めたのは、熊野水軍の動向であったと伝わっています。
楊貴妃を、どちらが味方につけたかによって、勝敗が決したわけです。
山口と熱田と・・・楊貴妃伝説についても、今なお、因縁(いんねん)の源平合戦が続いているわけで、とても、面白いですね。
参考
荼枳尼天(だきにてん)
中期密教では大日如来(毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ))が化身した大黒天によって調伏(ちょうぶく)され、死者の心臓であれば食べることを許可されたと
いう説話が生まれた。大黒天は屍林(しりん)で荼枳尼を召集し、降三世(ごうざんぜ)の法門によってこれを降伏し仏道に帰依させた。(中略)平安初期に空
海により伝えられた真言密教では、荼枳尼は胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)の外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼(だつせいき)として閻魔天(えんまてん)
の眷属(けんぞく)となっている。(中略)さらに時代が下ると、その形像は半裸形から白狐にまたがる女天形へと変化し、荼枳尼天と呼ばれるようになる。ま
た、辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)、貴狐天王(きこてんのう)とも呼ばれる。
荼枳尼天
平清盛や後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の護持僧(ごじそう)・文観(ぶんかん)などが荼枳尼天(だきにてん)の修法を行っていたといわれ、『源平盛衰
記(げんぺいせいすいき)』には清盛が狩りの途中で荼枳尼天(貴狐天王)と出会い、この修法を行うか迷う場面が記されている。ただし、『源平盛衰記』はあ
くまでも後世に書かれた文学作品であり、清盛が実際に荼枳尼天の修法を行っていたとする根拠はない。
平清盛は、久安(きゅうあん)5年(1149)5月、落雷で焼失した根本大塔(こんぽんだい
とう)を再建するために、鳥羽上皇の命により清盛の父忠盛
(ただもり)の実質的役割を継いで、建立奉行(こんりゅうぶぎょう)を務(つとめ)た。そして保元(ほうげん)1年(1156)4月29日、根本大塔が完
成する。(中略)ちなみに、清盛は根本大塔を再建するのにあたり、金堂に掲げる、たいへん大きな両部曼荼羅(りょうぶまんだら)をも寄進したが、その制作
過程において
、胎蔵曼荼羅の中尊(ちゅうそん)に、清盛自らの頭の血を絵具に混ぜて描かせたと、同じく『平家物語』に記されていて、その曼荼羅は「血曼荼羅」と
呼ばれて、今に伝わっている。
田辺市龍神村について
源平合戦に敗れ落ち延びた平維盛(たいらのこれもり)が、護摩(ごま)を焚いて平家の命運を占ったのが由来とされる『護摩壇山(ごまだんざん)』、その
維盛と恋に落ちた村娘お万との伝説が残る『白壷(しろつぼ)』『赤壷(あかつぼ)』『お万が淵』等がある。
松浦氏
松浦実任(まつうらさねとう)(安倍季任(あべのむねとう))の子孫の松浦高俊(まつうらたかとし)は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その
為、治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知貞(たいらのともさだ)に嫁ぎ、源氏
の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗ったとされ、その子孫に政治家の安倍晋太郎(あべしんたろう)・安倍晋三(あべしんぞう)親子がいる。
由良姫・由良御前
由良姫の父である藤原季範(ふじはらのすえのり)は、従姉妹(いとこ)に鳥羽院の乳母藤原悦子(ふじはらのえつこ)(藤原顕隆(ふじはらのあきたか)
室)がおり、またその甥が信西(しんぜい)(諸説あり)であるなど、中央政界との繋がりも多かったようだ。
※信西(しんぜい)の俗名は高階通憲(たかしなのみちのり)・藤原通憲(ふじわらのみちのり)
そのため、熱田大宮司家からは、男子は後白河法皇の北面の武士となる者が多く、女子は後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(むねこないしんのう)(上西
門院)に仕える女房がいる。
もともと、待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場にあったと思われる。由良姫自身も上西門院の女房として京都にいた可能性がある。
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