●熊野に残る三体月伝説
熊野では、三枚の月だとか、三体の月だとかの伝説があり・・・旧暦の11月23日
には、三体の月が登ると言われ、現在でも、この日は、熊野の各地で、三体月の観月会が開かれていま
す。
●熊野権現垂迹縁起に書かれた三枚月の伝説
この伝承の大元は、長寛(ちょうかん)元年(1163)から2年にわたって、公家や学者が朝廷に提出した書類「長寛勘文(ちょうかんかんぶん)」の中の
「熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)」に書かれた「三枚の月」伝説にあります。
*付録 熊野権現垂迹縁起
一部を抜粋します。
「壬午(みずのえうま)の年、本宮大湯原(大斎原(おおゆのはら))の一位木(いちい)の3本の梢(こずえ)に3枚の月形(つきがた)にて天降(あまく
だ)りなさった。8年が経った。
庚寅(かのえとら)の年、石多河(石田川(いわたがわ))の南、河内(かわうち)の住人、熊野部(くまのべ)千代定(ちよさだ)という犬飼(猟師)が体
長1丈(じょう)5尺(しゃく)(約4.5m)もの猪(いのしし)を射た。跡を追い尋(たず)ねて、石多河を遡った。犬が猪の跡を追って行くと、大湯原に
行き着いた。
件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。件(くだん)の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。「どうして
月が虚空(こくう)を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。
月が犬飼に答えておっしゃった。「我は熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)である」と。「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。今2
枚の月は両所権現(りょうしょごんげん)と申す」とおっしゃった。」
要約すれば、これは、熊野の犬飼が、三所権現である三枚の月を見つけるお話です。
私は、この伝説を、空海の高野山の開山伝説である「南山の犬飼」と同じものとみます。「高野山
縁起2(南山の犬飼と稲荷神)」の中で、私は、南山と熊野
は同じ意味だと書いてい
ますが・・・この「熊野権現垂迹縁起」の伝承で、南山の犬飼は、熊野の犬飼になっているわけです。そして、南山の犬飼の話の中の「三鈷杵(さ
んこしょう)」が、ここでは、「三枚の月」になっているのです。
※高野山縁起2(南山の犬飼と稲荷神)」の中で示しまし
たが、熊野信仰の基礎を作った円
珍には、石田川の畔で稲荷神・南山の犬飼と会った伝説があります。このことは、熊野部千代定と稲荷神・南山の犬飼が、同一人物である事を、ますま
す印象付けます。
●奥熊野玉置神社の三狐神信仰と三枚月
この三枚の月の正体を明らかにする前に、私が、熊野のキツネ信仰として、もっとも重要視している熊野の奥宮・奥熊野玉置(たまき)神社の摂社、熊野三柱
神社を紹介しておきましょう。
この三柱神社は、古くは、その正体を三狐神(みけつかみ)であると言われてきました。
奥熊野玉置神社の摂社・三柱神社/三狐神
この三狐神について、「玉置山権現縁起(たまきさんごんげんえんぎ)」に
次のようにあります。
「三狐神(みけつかみ) 所謂(いわゆる) 天狐 地狐 人狐ナリ。新宮ニ於(おい)テハ飛鳥(あすか)ニ住ム。則(すなわ)チ漢司符(かんしふ)将軍
ノ妻室(そくしつ)ナリ。三大明神ノ母ナリ。権現ノ氏人(うじひと) 千与定ノ子。」
ごらんいただいたとおり「玉置山権現縁起」の「三狐神」の縁起(えんぎ)には、先の三所権現を祀(まつ)った熊野の犬飼 千代定が登場して、
三狐神は、千与定の子であるとしています・・・・ということは、この三狐神と
「熊野権現垂迹縁起」に登場する三所権現は、同体でしょう。そして、母とか、妻とか書かれていますから、これが、女神だともわかります。
三狐神(みけつかみ)は、別字で御饌津神(みけつかみ)とも書かれますが、これは、稲荷神だとされています。
そして、神道の世界には、この御饌津神(稲荷神)が月(ゲツ)になったという伝承が「倭姫命世記(やまと
ひめのみことせいき)」に残されています。
三所権現が、三狐神・・・すなわち、三体のキツネであると考えるなら、「熊野権現垂迹縁起」で三所権現が、三枚の月になったという伝承が、理解出来るの
ではないでしょうか?
●三体月と弾圧された真言宗(立川流)
さて、冒頭にあげた三体月観月会ですが、まだ、一度も三つの月が現れたという話はありません。実際に見えるのは、写真のような月です。
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