●楊貴妃の前時代からあった「妲己=九尾の狐」の伝説
「妲己が九尾の狐である」事を伝える「狐媚記」より、さらに古い書物があります。
「千字文(せんじもん)」という文書で、これは、中国における「いろは歌」のようなもので、王義之(おうぎし)の書を、南北朝時代に活躍した周
興嗣(しゅう こうし)が編纂してつくりあげたと伝わり、一千個の重複(ちょうふく)しない文字で書かれています。
中国では、古くから、児童の文字の手習
い書として使われてきました。日本には、李暹(りせん)という6世紀(西暦500年代)に生存した学者の注釈と共に伝わっています。
この李暹の書いた注釈は、本国である中国では、ほとんど残っていないのですが、この注釈の中に、妲己が九尾の狐であった事が書かれています。
李暹は、楊貴妃の前時代の6世紀の人物ですから、楊貴妃の生きていた時代には、すでに、妲己が九尾の狐であるという伝説が存在した事になります。
楊貴妃は、杜甫の歌に見たように、一般民衆から妲己や褒姒と同一視されていたのですから、九尾の狐と言われるようになるのが、自然な流れであろうと思い
ます。
しかし、今まで、述べてきたように、九尾の狐伝説の中には、なぜか、楊貴妃の名前はありません。
●大江匡房の「狐媚記」がもとになった「玉藻前」の伝説
日本での九尾の狐の伝説の始まりは、大江匡房の「狐媚記」でしょう。
玉藻前のモデルと言われている美福門院(びふくもんいん)・藤原得子(ふじはらなりこ)の出生は、1117年です。
前節で書いたように大江匡房は、1111年に亡くなっていますから、ほとんど入れ替わるように生まれています。
この事から、大江匡房の「狐媚記」がもとになって「玉藻前」の伝説が生まれたと考えら
れます。
●「玉藻前」は「楊貴妃渡来」から生まれた!
すでに見て来たように、「狐媚記」は、楊貴妃の事を書いていると思われます。
「玉藻前」の伝説は、あきらかに最初から、楊貴妃がモチーフになって作られました。
なのに、なぜ、執拗(しつよう)に巧妙(こうみょう)に 楊貴妃を排除しているのでしょうか?
これは、やはり、楊貴妃の事が、日本の禁秘(きんぴ)であり、そのため、意図的に、九尾の狐伝説から、楊貴妃を排除する必要があった!と考えなくてはい
けないと思います。
もし、楊貴妃が、中国で死んだのなら、九尾の狐伝説から、楊貴妃を排除する必要は何もなかったはずです。
やはり、これは、日本に、楊貴妃が亡命したからこそ、隠す必要があったのではないでしょうか?
●大江匡房は「楊貴妃渡来」を知っていた!
大江匡房は、日本に楊貴妃が渡って来た事を知っていた。本当は、そのことをウズウズとするぐらいしゃべりたかった!・・・だからこそ、「江談抄・吉備入唐の間の事」や「狐媚記」にそのヒントを残した。・・・私は、そう思います。
いったい、誰から、それを聞いたのでしょうか?
「吉備伝説の謎」で詳しく検証するこの大江匡房の書いた「江談抄・吉備入唐の間の事」の最後の文章に、そのヒントがあります。
「この事、我、たしかにくわしくは書に見る事なしといえども、故孝親(たかちか)朝臣(あそん)の先祖より語り伝えたる由(ゆえ)語られしなり。またそ
のいわれなきにあらず。」
●橘家に伝えられていた「楊貴妃渡来の記憶」
孝親朝臣(あそん)とは、大江匡房の外祖父、橘 孝親(たちばなのたかちか)の事で・・・・その先祖を吉備真備の活躍していた時代にまで遡ると、「野馬
臺詩(やまたいし)編」の最後に登場する参議の「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)」にいきあたります。
橘奈良麻呂は、真備の後見人であった左大臣「橘 諸兄(たちばなのもろえ)」の息子で、朝廷内では真備の最も信頼する人物であったはずです。
「吉備真備が、楊貴妃を日本につれてきた・・・・。」
大江匡房の書いた「江談抄・吉備入唐の間の事」や「狐媚記」は、きっと、貴族達の間で話題となった事で
しょう。
他の貴族の中にも、吉備真備がつれて来た美女の事を、聞き伝えていた人もあったかもしれません。
しかし、これは、朝廷が、ずっと、歴史の闇の中にひた隠しにしてきた記録でした。
「吉備真備がつれてきた狐の美女」の噂は、一般庶民にまで広がり・・・・その噂を、楊貴妃から、そらすために、玉藻前は、創作されたのではないか?
私は、こう想像しています。
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