龍神楊貴妃伝

吉備伝説の解釈

●史実と異なる吉備伝説

 読んできていただいたように、安倍晴明の前世譚の「安倍仲麿生死流傅輪廻物語 (あべなかまろせいしるてんりんねものがたり)」及び大江匡房(おおえのま さふさ)の「江談抄(ごうだんしょう)・吉備入唐の間の事」と、史実に照ら した阿倍仲麻呂と吉備真備の行動は、全く異なっています。
 史実では、阿倍仲麻呂が入唐した時、吉備真備も一緒だったわけですし・・・・一般に、「安倍仲麿生死流傅輪廻物語」や「江談抄・吉備入唐の間の事」の時 代設定は、吉備真備の2度目の訪唐(第12次遣唐使)を舞台にしていると言われていますが・・・・この時は、阿倍仲麻呂は、生きて吉備真備を接待したので すし、それどころか・・・一緒に連なって日本に帰ろうとしていたのです。

●吉備伝説はただの物語か?

 ただの物語だと、すませたいところですが、 江談抄の語り部の大江匡房 が、「玉藻前はなぜ作られたのか?」でも少し、 紹介しましたが、奇妙な事を言っています。
 「この事、我たしかにくわしくは書に見る事なしといへども、故孝親朝臣(あそん)の先祖より語り伝えたる由(ゆえ)語られしなり。またそのいわれなきに あらず。大略ほぼ書にも見ゆるところ有るか。我が朝の高名はただ吉備大臣に在り。」
 すなわち、これは、真実でないとしても、真実を含んでいると言っているわけです。

 大江匡房は、普通の人ではあ りません。この時代の最高知能というべき存在です。源氏の武名を最初に轟かせた八幡太郎義家の兵法の師が、この大 江匡房であったとも伝えられています。

「大江匡衡の孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。」
抜粋 ウィキペディア 大江氏 http: //ja.wikipedia.org/wiki/大江氏


 今まで、書いて来た阿倍仲麻呂と吉備真備の行動は、多くが「続日本紀」などの史書に記述されてあり、当然、大江匡房は、史実を把握(はあく)していたは ずです。
 その彼が、なぜ、このような事を言うのでしょうか?

 大江匡房が楊貴妃にとりつかれ、楊貴妃の事を調べていたのは、間違いありません。
 この事を言っているのは私だけではなく、たとえば、帝塚山大学(てづかやまだいがく)の人間文化学年報(平成17年・2005年)「願文にひそむ俗文学 ―『江都督納言願文集(ごうととくどうげんがんもんしゅう』を中心として―」で、この論文を書いた王(おう)暁平(ぎょうへい)氏は、「注目すべきは、楊 貴妃の故事が、匡房の願文に頻用(ひんよう)されることである。」と述べておられます。

 私は、「吉備入唐の間の事」は、「吉備真備の訪唐の話ではない」と思います。
 ここに書かれているのは、「楊貴妃の日本亡命の記録」だと考えます。

  「吉備入唐の間の事」に楊貴妃の亡命が書かれている証拠は、今まで見て来たとおり、 安倍晴明の前世譚九 尾の狐伝説で、吉備真備が唐の国から美女(狐)を連れて来た事になっている事・・・引用さ れている野馬臺詩(やまたいし)が、楊貴妃 が書いたと思われる事・・・大江匡房の別の書「狐媚記(こびき)」の文章が楊貴妃来日を語って いると思われる事・・・等、いろいろありますが、今回は、阿倍仲麻呂に注目してみましょう。

真備と仲麻呂
吉備大臣入唐絵巻より「真備と仲麻呂」
 「安倍仲麿生死流傅輪廻物語(あべなかまろせいしるてんりんねものがたり)」及び「 江談抄・吉備入唐の間の事」では、阿倍仲麻呂が幽鬼(ゆうき)となって登場します。

 今まで、書いた史実での阿倍仲麻呂の行動を思い起こすなら、阿倍仲麻呂が幽鬼となっていた期間が思い当たるはずです。

 すなわち、753年に吉備真備等と共に、唐の国を出航し、行方不明となって、死んだと思われていた期間です。
 すでに書いたように755年の中頃に長安の都に帰ってくるのですが、その事は、日本では知られず、758年になって、遣渤海使(けんぼっかいし)・小野 田守(おのたもり)によって、安史の乱と阿倍仲麻呂の生存が伝えられたと言われています。(続日本紀に小野田守の報告の後、朝廷が、藤原清河を迎えに行く ための船を出す記述があり、当然このとき、藤原清河と一緒に遭難していた阿倍仲麻呂の生存も伝わったと考えられている。)

 楊貴妃の馬嵬(ばかい)での(史歴上の)死は、756年・・・すなわち、日本において、阿倍仲麻呂が死んでいると考えられていた時期と一致するのです。
 もしも、阿倍仲麻呂が、楊貴妃の馬嵬からの秘密脱出と日本への亡命に関与していたとしたら・・・・ お話が、にわかに真実味をおびて見えてこないでしょうか?

●吉備入唐の間の事の解析

 私は、この「吉備入唐の間の事」の物語を、幽鬼であった阿倍仲麻呂が、女神「楊貴妃」を吉備真備に引き渡したお話だとみます。

  「江談抄・吉備入唐の間の事」をもう一度見ていきましょう。
  吉備入唐の間の事では、物語の最後の方で、吉備真備が唐土の「日月」を隠す事によって、唐の国が大混乱に陥る様子が書かれています。これは、「安史の乱」 によって、唐土が戦乱に陥った事を連想させます。

 中国で、太陽と月を支配する者は、女神「西王母」です。

 楊貴妃が西王母と同一視されていた事は明らかです。
 「楊貴妃はどんな容姿の女性であったか?」で詩を紹介しますが、楊貴妃の目前 で詩を詠んだ李白は楊貴妃の美しさを西王母にたとえています。さらに、李白の友人であった杜甫も楊貴妃を西王母に例えた 詩を詠んでいます。
 
 そして「キツネとヤタガラスのかたる楊貴妃渡来」で述べますが、楊貴妃を西王母と同 一視する事は、白居易が長恨歌の中で、決定的にさせました。

 楊貴妃フェイクであった大江匡房がこの事を知らなかったとは思えません。

 史実は、「安史の乱」によって大混乱が起こり、それに巻き込まれて楊貴妃が亡くなる(行方がわからなくなる)のですが、大江匡房は、これを吉備真備が楊 貴妃(西王母)という女神を隠す事によって日月が隠され、唐土が大混乱に陥ったと例えたのではないでしょうか?

 もう一つ、この「吉備入唐の間の事」に関係するだろうお話として、朝鮮半島に伝わる「延烏郎 (よのおらん)と細烏女(せおにょ)」を紹介しておきます。
 このお話では、朝鮮半島に住む延烏郎と細烏女が、日本に渡り、延烏郎が王に・・・細烏女が貴妃になったと書かれています。
 そして、細烏女が日本に渡った結果、朝鮮半島から日月が失われるという現象が起ったと書いてあります。「延烏郎と細烏女」のお話は、大江匡房 が、江談抄を作った後に、書かれた物語です。
 この細烏女が、日本に渡って、朝鮮半島の日月が失われると いうのは、「吉備入唐の間の事」の吉備真備が、唐土の日月を隠したお話を連想させます。
 細烏女が貴妃になったというのは、これが、楊貴妃で、楊貴妃が日本に渡ったことで、日月が失われたというお話なのではないでしょうか? 

 吉備真備が唐土の「日月」を隠す事によって、唐の国が大混乱に陥る話は、天照大神が天岩戸に隠れて、太陽が隠れ、日本が、大混乱に陥るという日本神話の お話も連想させます。
 後にキツネの女神「ダキニ」が天照大神と同一視されるようになるのも、おそらく、この「吉備入唐の間の事」の物語のイメージがあるからだと私は想像しま す。
参考1

杜甫詩 奉同郭給事湯東靈湫作(一部)

翠旗澹偃蹇,雲車紛少留。
鮫人獻微綃,曾祝沉豪牛。
百祥奔盛明,古先莫能儔。
坡陀金蝦蟆,出見蓋有由。
至尊顧之笑,王母不肯收。
複歸虛無底,化作長黃虯。
 
 この詩の中で、杜甫は、玄宗皇帝を道教の最高神である元始天尊に、楊貴妃を西王母に、安禄山を月に棲む金のガマガエルに見立 てている。

参考2
延烏郎と細烏女 『三国遺事』

『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。 朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献である。
参考 ウィキペディア http: //ja.wikipedia.org/wiki/三国遺事

第八阿達羅王即位四年丁酉。東海濱有延烏郎細烏女。夫婦同居。一日延烏歸海採藻。忽有一巖(一云一魚)、負歸日本。國人見之曰:此非常人 也。乃立為王 (按日本帝記。前後無新羅人為王者。此乃邊邑小王。而非真王也)

 第八代阿達羅王の即位四年(157年)丁酉。東海の浜辺に延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)がおり、夫婦で暮らしていた。ある日、延烏が海中で 海藻を採っていると、突然、岩(魚ともいう)が出現し、(延烏郎)を乗せて日本に帰った。国人はこれを見て「これは並みの人ではない」と言い、王に擁立し た。
(思うに、日本の帝記は、前後に新羅人で(日本の)王と為った者がいない。要するに、これは辺境の邑落の小王であり、本当の国王ではない)。

 
 細烏怪夫不來歸尋之。見夫脱鞋、亦上其巖。巖亦負歸如前。其國人驚訝。奏獻於王。夫婦相會立為貴妃。是時新羅日月無光。

 細烏は夫が帰って来ないのを不審に思い、夫を探し求めた。夫の脱いだ鞋を見つけると、彼女もまた岩に上った。岩はまた前回のように(細烏を)乗せて(日 本に)帰った。そこの国人は驚き怪訝に思った。謹んで王(延烏)に(細烏を)献上した。夫婦が再会し、(細烏は)貴妃に立てられた。この時、新羅の日月は 光を消してしまった。
 
 日者奏云:日月之精、降在我國。今去日本。故致斯怪。王遣使求二人。延烏曰「我到此國、天使然也。今何歸乎。雖然朕之妃有所織細綃、以此祭天可矣」。仍 賜其綃。使人來奏。依其言而祭之。然後日月如舊。藏其綃於御庫為國寶。名其庫為貴妃庫、祭天所名迎日縣、又都祈野。

 日が奏して言うには「日月の精は、降臨して我が国に在った。今、日本に去ったので、この不思議な現象に到った」。王は使者を派遣して二人を求めた。延烏 が「私はこの国に到ったのは、天が然るべくさせたものである。今どうして帰ることができようか。だが、朕の妃が織る薄絹が有るので、これを天に祭れば、可 なり」と言った。言葉の通り、その薄絹を賜う。使者が戻って来て奏上した。その言葉に基づいて薄絹を祭った。然る後、日月は元通りに復旧した。その薄絹を 国王の御庫に収納して国宝にした。その庫を貴妃庫と名付け、天を祭った場所を迎日県、または都祁野と名づけた。

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どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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