龍神楊貴妃伝

野馬臺詩の波紋1(紀伊の国に運ばれた楊貴妃)

●楊貴妃の軌跡を記録した「熊野権現垂迹縁起」

 楊貴妃が、どのようなルートで、日本に渡り、そして、日本に来てから、どのような生活を送ったか・・・もちろん、記録は残っておらず、詳しい事はわかり ません。

 しかし、前半までの探求で、少しわかっている事もあります。

 まず、空海の飛行三鈷伝説阿倍仲麻呂の詩に関する逸話からの推測ですが、楊貴妃が明州(寧波)の港から、日本に旅立ったこと・・・そして、吉備真備のいる大宰府に向かった事・・・・そして、日本に到着してから、まもなく孝謙天皇に野馬臺詩を奏上した事です。

 そして、もう一つ、「長寛勘文(ちょうかんかんもん)」に記載された「熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)」も、ヒントになりそうで す。

 「三体月伝説の本当の意味」で、見てきたとおり、私は、この「熊野権現垂迹縁起」に描かれる「熊野の犬飼、千代定」は、高野山伝説の「南山の犬 飼」や、東寺に伝えられた「稲荷神」と同一人物だと想像しています。

 特に、天台寺門派は、円珍が石田川の畔に住む「稲荷神・犬飼」から楊貴妃の霊神を いただき、これを熊野に祀ったのだと信じていたでしょう。
 「熊野権現垂迹縁起」の「熊野の犬飼、千代定」のお話は、まさに、この事を表していると考えられます。

 さらに「熊野の犬飼、千代定」の出て来る少し前の部分も見てみると、そこには、「初めは結玉家津美御子(ゆりたまけつみみこ)と申した。二宇 (にう)の社であった。」とあります。

 「ケツ」は、「キツネ」の古語読みですから、この「けつみみこ」を「キツネ」、「にう」を「丹生」と読めば、これは、この熊野の神が、「キツネとして丹 生の社に祀られていた」と解釈できます。・・・すなわち、これは、私の想定した高野山の成立伝説とも一致します。

 こうしてみると、「熊野権現垂迹縁起」は、大本の話から大きく装飾が加えられているものの・・・全体として、楊貴妃の日本での軌跡を追い描いていると考 えられるのです。

●「熊野権現垂迹縁起」から読み解く楊貴妃の行動

 そこで、「熊野権現垂迹縁起」から楊貴妃の行動を推測(すいそく)してみる事にします。

 「昔、甲寅(きのえとら)の年、唐の天台山(てんだいさん)の王子信 (王子晋(おうししん)。中国の天台山の地主神) の旧跡が、日本の鎮西(ちんぜい)(九州)の日子の山峯(英彦山(ひこさん))に天降(くだ)りになった。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。 そのような姿で天(あま)降(くだ)りになった。それから5年が経った。
 戊午(つちのえうま)の年、伊予国(いよのくに)(今の愛媛県)の石槌の峯(石槌山(いしづちさん))にお渡りになった。それから6年が経った。甲子 (きのえね)の年、淡路国(あわじのくに)(今の兵庫県の淡路島)の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山(ゆづるはさん))にお渡りになった。それから6年が過ぎた。
 庚午(かのえうま)の年3月23日、紀伊国牟婁(むろ)郡切部山(きりべやま)の西の海の北の岸に玉那木(たまなぎ)の淵の上の松の木の本にお渡りに なった。それから57年が過ぎた。
 庚午(かのえうま)の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵(かみくら)の峯にお降りになった。それから61年後の庚午(かのえうま)の年、新宮の東の阿須 加(あずか)の社(やしろ)の北、石淵(いしふち)の谷に勧請(かんじょう)し奉(たてまつ)った。初めは結玉家津美御子(けつみみこ)と申した。二宇 (にう)の社であった。それから13年が過ぎた。
 壬午(みずのえうま)の年、本宮大湯原(大斎原(おおゆのはら))の一位木(いちい)の3本の梢(こずえ)に3枚の月形(つきがた)にて天降(くだ)り なさった。8年が経った。」

 天台山(てんだいざん)は、寧波(ねいは)市の鄰の台州(たいしゅう)市にあります。楊貴妃は、寧波を出て、吉備真備のいた大宰府(だざいふ)を目指し たはずですが・・・・英彦山(ひこさん)は、大宰府のある福岡と大分の境に位置する霊山です。こうして考えると、「熊野権現垂迹縁起」に書かれている道筋 は、ほぼ、私が推測した楊貴妃の上陸過程をたどっています。

 しかし、記載された年月については、とてもうなずけません。

 よく読むと、この文に、干支だけでなく、日付けが書かれているのは、「庚午(かのえうま)の年3月23日」だけです。しかも、同じこの「庚午(かのえう ま)の年3月23日」が2回出てきます。そして、間には「それから57年が過ぎた」とあります
 干支は60を単位として1回転します。ですから、次の庚午の年になるには、60年(その年を入れて、61年)が経過しなくてはなりません。ど う考えても、57年では、勘定があいません。他の記述部分は、だいたい、干支と経過した年数の間に狂いがないので、奇妙さが目立ちます。(六十干支の数え方を並べておきますので、確認してみてください。)

 私は、「熊野権現垂迹縁起」に書かれている日付けは、熊野権現(楊貴妃)が紀伊の国に上陸したと書かれた「庚午(かのえうま)の年3月23日」に大きな 意味があるのではないかと考えます。

●楊貴妃が紀伊の国に上陸したのは何時か?

切目辻
切目辻
みなべ町と龍神村の境付近、切目辻というバス停がある
本当の切り目辻は、このトンネルの上にあった
  おそらく、楊貴妃が日本に上陸したのは、状況から考えて、756年の後半か・・・757年の前半でしょう。干支は、756年が「丙申(ひのえさる)」、 757年が「丁酉(ひのととり)」で、「庚午(かのえうま)」ではありません。庚午(かのえうま)の年は、そこから33年後の790年(延暦(えんりゃ く)9年)です。とても、これは楊貴妃が上陸した年とは、考えられません。しかし、よく調べると、1日ずれてはいますが、757年の3月22日の日の干支 (か んし)が「庚午(かのえうま)」なのです。ひょっとすると、この日が、楊貴妃が、紀伊の国に上陸した日なのではないでしょうか?

 熊野権現の上陸したとされる切部山の正確な場所は、わかっていませんが、現在、和歌山県日高(ひだか)郡印南(いんなみ)町に切目王子(きりめおうじ) という社があり、その周辺と考えられています。現在のみなべ町と龍神村(りゅうじんむら)の境にも、切目辻(きりめつじ)という場所があり、私は、切部山 (きりべやま)は、この付近の山をさすのだろうと考えます。
 楊貴妃は、ここに上陸して、留(と)まったのでしょう。

 この3月22日庚午(かのえうま)の日、続日本紀には、天皇の寝殿(しんでん)の天井板に「天下太平(てんかたいへい)」の文字が現われたというので、 親王や群臣を集めて祥瑞(しょうずい)の文字を見させたとあります。年代もこの時「天平勝宝(てんぴょうしょうほう)」から「天平宝字(てんぴょうほう じ)」へと変わるのですが、衆目がこの文字出現を注視しているうちに、裏で楊貴妃の紀伊の国への移送が行なわれていたことになります。

●孝謙天皇の意志を反映した楊貴妃の紀伊の国への移送

 天皇の寝殿の天井板に文字が自然に現れるなどありえません。これは、間違いなく人為的なものでしょう。そして、天皇の寝殿の天井板に文字を書くことの出来る人間は、天皇その人以外、考えられません。
 だとすれば、これは、孝謙天皇本人の策略で、この楊貴妃の紀伊の国への移送は、孝謙天皇の意志を反映(はんえい)していた事でしょう。
 後(「楊貴妃隠棲1」)に書きますが、孝謙天皇は紀伊の国に、深い繋がりを持っていたようです。
 そうであるとすれば、「野馬臺詩」は、この時までには、孝謙天皇に伝えられていたことになります。そして、楊貴妃が、日本に上陸したのは、この757年 の3月よりも、もう少し前の事だったと考えたほうが自然でしょう。
 続日本紀から、歴史を読み解くと、その前の正月六日に、左大臣であった橘諸兄(たちばなのもろえ)が亡くなっています。以前(史歴の中の吉備真備と阿倍仲麻呂)にも書いていますが、吉備真 備は、橘諸兄の引き立てで出世した人物です。おそらく、橘諸兄の法要(ほうよう)を口実に、吉備真備は上京し、楊貴妃の亡命を孝謙天皇に伝えていたのでは ないでしょうか。

●楊貴妃の奏上を疑った孝謙天皇

 しかし、孝謙天皇は、吉備真備の奏上(そうじょう)を疑っていました・・・・。
 唐の皇帝妃である楊貴妃が日本に脱出してくるなど・・・当時であっても荒唐無稽(こうとうむけい)の話であったでしょう・・・。

●皇太子位を剥奪された道祖王

 この約一週間後、 天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)3月29日、皇太子である道祖王(ふなどおう)が、皇太子の位を剥奪(はくだつ)されます。
 道祖王は、前年の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年(756)、太上天皇(だいじょうてんのう)(皇位を後継者(こうけいしゃ)に譲(ゆず)った天 皇の事)である聖武天皇(しょうむてんのう)の崩御(ほうぎょ)にあたって、聖武天皇の遺志(いし)によって、皇太子に選ばれたばかりでした。

●なぜ道祖王は皇太子位を解任されたか?

皇太子解任の理由として、続日本紀には、次のような事があげられています。

@王は、先帝の服喪(ふくも)も終わらず、御陵(ごりょう)の土もまだ乾かない中にひそかに侍童(さぶらいわらわ)と姦淫(かんいん)して、先帝に対する 恭敬(くぎょう)の念がなかった。
A王が喪に服する儀礼は、憂愁(ゆうしゅう)の心がなく、機密のことをみな民間に漏らしてしまった。
Bしばしば自分(孝謙天皇)が教戒(きょうかい)を加えたが、悔(はじ)いる様子もなく、婦人の言を好んで取り上げ、教戒に反することが多かった。
C王は急に春宮(しゅんきゅう)(皇太子の宮殿)を出て、夜分に独り私宅に帰ってきたりし、口を開けば「私は拙(つたな)く愚(おろ)かな人間なので、重 い任(にん)を担(にな)うことに堪えられません」と言っていた。

●解任の影で糸をひいていた藤原仲麻呂

 実際には、道祖王の皇太子解任の策謀(さくぼう)を行ったのが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)である事は明らかでしょう。
 この後、道祖王に代わって、皇太子に選ばれたのが、大炊王(おおいおう)です。
 大炊王は、それまで無位の身分で、周囲の注目を集めることもなく、仲麻呂の私宅である田村第(たむらだい)に居候(いそうろう)となっていました。(大 炊王は、 仲麻呂の長男、眞従(まより)の未亡人であった粟田諸姉(あわたのもろえ)と結婚していました)
 それが、いきなり皇太子に抜擢(ばってき)されたのです。
 藤原仲麻呂は、自分の私宅である田村第から大炊王を迎えさせ、立太子させました。

 それにしても・・・・道祖王(ふなどおう)が、解任された理由に言われたような事をしていたとしたら・・・その理由は何でしょうか?

●日本の危機を憂いていた道祖王

 おそらく、吉備真備は、皇太子であった道祖王にも、楊貴妃亡命の事を伝えたでしょう。
 あるいは、道祖王は、楊貴妃の伝えた情報を信じる勢力と、孝謙天皇を繋ぐパイプ役を引き受けていたのかもしれません。
 もし、そうだとすれば、侍童との姦淫の事はともかく、解任(かいにん)の理由となった行動を疑われるような状態が起きたかもしれません。
 「機密のことをみな民間に漏らしてしまった。」、「婦人の言を好んで取りあげた。」、「私は拙(つたな)く愚(おろ)かな人間なので、重い任(にん)を 担(にな)うことに堪えられません」と言っていた・・・これらの行動や言動は、楊貴妃の亡命と唐国の動乱の情報を受けてのものだったとしたら、腑(ふ)に 落ちます。
 あるいは、侍童との姦淫の話も、楊貴妃を男装させて、道祖王宅に預けられてあったものかもしれません。(水鏡には、「女の方にのみみだれ給へりしかば」 とあります。)
 もしそうだとしたら、道祖王は皇太子としての責任を感じ、日本の危機を憂いていたことでしょう・・・・。


参考
六十干支
1、 甲子 2、乙丑 3、丙寅 4、丁卯 5、戊辰 6、己巳 7、庚午 8、辛未 9、壬申 10、癸酉 11、甲戌 12、乙亥 13、丙子 14、丁丑  15、戊寅 16、己卯 17、庚辰 18、辛巳 19、壬午 20、癸未 21、甲申 22、乙酉 23、丙戌 24、丁亥 25、戊子 26、己丑  27、庚寅 28、辛卯 29、壬辰 30、癸巳 31、甲午 32、丙未 33、丁申 34、戊酉 35、戊戌 36、己亥 37、庚子 38、辛丑  39、壬寅 40、癸卯 41、甲辰 42、乙巳 43、丙午 44、丁未 45、戊申 46、己酉 47、庚戌 48、辛亥 49、壬子 50、癸丑  51、甲寅 52、乙卯 53、丙辰 54、丁巳 55、戊午 56、己未 57、庚申 58、辛酉 59、壬戌 60、癸亥

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


ペーパーバック版、電子書籍版

龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


ペーパーバック版、電子書籍版