龍神楊貴妃伝

阿倍仲麻呂と楊貴妃

●馬嵬事変の時、阿倍仲麻呂はどこにいたか?

 阿倍仲麻呂が、 玄宗皇帝の長安脱出の時、その行列の中に混じっていたかどうか?記録はありません。
 しかし、この時、長安にいたのは、ほぼ確実ですから、脱出組の中にいた・・・・と考えた方が自然でしょう。

 日本に返したつもりの阿倍仲麻呂の処遇をどうするのか?おそらくは、決まらないうちに安史の乱が起こり、政務は混乱をきわめていたでしょう。当然、阿倍 仲麻呂の人事などは、後回しになったでしょうし、きっと、阿倍仲麻呂は、比較的自由な立場で、この脱出行に加わっていたに違いありません。
 そして、続々と離反者(りはんしゃ)の出る中、日本人である阿倍仲麻呂が、脱出組の中から消えたとしても、誰も気にはしなかったでしょう。

 楊貴妃を助けた宦官の高力士(こうりきし)は、才も人脈もあり、比較的自由な立場の・・・そして、遠い異国から来たこの阿倍仲麻呂に楊貴妃の行く末を頼 み、まかせたのではないでしょうか?

●日本に渡る船はあったか?

 この時期に、遣唐使船が渡った記録はありません。
 だから、楊貴妃が日本に渡るなど不可能だという意見もあるかもしれません。しかし、唐と日本を行き来する船は、遣唐使船しかなかったのでしょうか?

 先に、阿倍仲麻呂が死んだと聞いて李白が、その死を悼(いた)む歌を書いてい るのを紹介しました。

 阿倍仲麻呂が、唐側送使団長(そうしだんちょう)となり、唐を離れたのは、753年11月16日です。他の船が続々と到着する中、阿倍仲麻呂の乗った船 が遭難(そうなん)したと日本政府が確認するのは、754年の春頃。李白が、阿倍仲麻呂の遭難を聞いたのは、その後でしょう。そして、阿倍仲麻呂は、 755年の中頃には、長安に戻っていますから、李白が聞いたのは、その前という事になります。
 すなわち、すくなくとも、754年の中頃から755年の中頃までの約1年間の短い期間のうちに、李白は、阿倍仲麻呂遭難の情報をキャッチしています。 いったい、李白はどこから、その情報を得たのでしょうか?

 もちろん、当時は、テレビもメールもありません。手紙はあったでしょうが・・・そこには、人の行き来がなくてはならなかったはずです。

 このときから約80年後の天長8年(831)の「太政官符(だいじょうかんふ)」には、唐や新羅(しらぎ)から頻繁(ひんぱん)に民間の交易船が来てい る様子が記されています。

 阿倍仲麻呂の生きていた時代でも、文献に書いてないからといって、船の行き来がなかったという証拠にはならないでしょう。記録には、とどめる必要がある と判断されたものだけが記されているだけで、その必要性がないと思われたものは、記録に残っていないのかもしれません。 遣唐使船の記録は、今で言うならば、政府専用機の離着陸の記録にすぎないのではないでしょうか?
  楊貴妃の馬嵬事変から、3年後の続日本紀の天平宝字3年(759)の9月4日の記事に「新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えるこ とがない。帰国したいものがあれば、食糧を給して帰らせるように」と大宰府(だざいふ)に伝えた記事が書かれています。ここからも、少なくとも新羅経由で あれば、記録に残っていない異国船が、多くあった事をうかがわせます。

 楊貴妃の親族(楊国忠の息子)に「楊咄(ようとつ)」という者がいます。楊咄は、外交を扱う鴻臚卿(こうろけい)でありました。おそらく、楊貴妃の脱出 行を、この楊咄が支援していたでしょう。そして、ここから、阿倍仲麻呂は、親友である吉備真備が、日本の門番というべき、大宰大弐(だざいのだいに)の職 にあるという情報を得ていたのではないでしょうか?
参考
 「万春公主(ばんしゅんこうしゅは)嫁给杨国忠的幼子(ようこくちゅうのすえっ こにとついだ)、鸿胪卿杨朏(こうろけいのようとつである)。」

●阿倍仲麻呂は楊貴妃と共に日本に渡った?

 吉備真備が、大宰大弐であった事は、吉備真備にとっては屈辱(くつじょく)であったでしょうが・・・阿倍仲麻呂や楊貴妃にとっては、これを天佑(てんゆ う)と感じたに違いないと思います。 阿倍仲麻呂は、すべての段取りを整え、親友、吉備真備に後をたくし楊貴妃を港から送り出したでしょう・・・。

 あるいは、阿倍仲麻呂は、日本にまで楊貴妃と共に、同行していたでしょうか?

 山口の楊貴妃渡来伝説の中にも、阿倍仲麻呂が一緒であったという伝聞もあるようです。

 もしも、楊貴妃の渡来に阿倍仲麻呂が同行していたとすれば、大宰府の吉備真備の前に、死んだはずの阿倍仲麻呂が亡霊のように現れたわけで、「安倍仲麿生 死流傅輪廻物語」や「江談抄・吉備入唐の間の事」の吉備真備と阿倍仲麻呂の会合(かいごう)シーンが、さらに、真実味を持って迫って来るわけですが・・・ 阿倍仲麻呂は、その後の唐の記録(旧唐書(くとうじょ)http: //zh.wikisource.org/wiki/舊唐書/卷199上)(新唐書http://zh.wikisource.org/wiki/新唐書/卷220)でも、上元元年(760)に左散騎常侍(ささんきじょうじ)(皇帝の側近で高級拾遺職(しゅうい しょく)・従三品)、 上元二年(761)には、名誉職としての鎮南都護(ちんなんとまもり)(正三品)に任じられたと書かれており、もし、日本に上陸していたとしたら、トンボ 帰りで、唐に戻った事になります。

 渡航は、民間商船の方が、船足も速く、遣唐使船より安全だったという話もありますが、どちらにしろ、この時代の渡航は命がけで、阿倍仲麻呂がそんな馬鹿 な事をしたわけがないでしょう。

 しかし、私は、こうも思います・・・・もしも、阿倍仲麻呂が、秘かに楊貴妃を心から愛していたとすれば・・・・おそらく、その渡航の心細い期間を放って おく事は出来なかったでしょう。男は、たとえ、それを女性が受け入れてくれないとわかっていたとしても、愛する女のためなら、命がけで馬鹿をするもので す。

 私なら、きっとそうする。・・・・そう思います。

フェイスブックで、阿倍仲麻呂の帰還について、上記の文とは全く別の推理を行なっています。現在のところは、どちらが正しいとは言えないのですが、この新しい考えにも、私は大きな魅力を感じています。どうぞ、こちらもお読みください。
https://www.facebook.com/ryujinyoukihi/posts/880135678743578
https://www.facebook.com/ryujinyoukihi/posts/881056408651505
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https://www.facebook.com/ryujinyoukihi/posts/883226251767854
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参考1

江談抄 第三の(三)「阿倍仲麿読歌事」
霊亀二年為遣唐使、仲麿渡唐之後不帰朝。於漢家楼上餓死。吉備大臣之後渡唐之時、見鬼形、与吉備大臣言談相教唐土事。仲麿不帰人也。読歌難不可有禁忌。尚 不快歟、如何。師清手返也

アマノハラフリサケミレハカスカナルミカサノヤマニイテシ月カモ

件歌仲丸読歌覚候。遣唐使ニヤマカリタリシ。唐ニテ読歟如何。何事ニマカリタリシソ。 可有禁忌之事歟。永久四年三月或人問師遠。

訳文

江談抄 第三の(三)「阿倍仲麿 歌を読む事」
霊 亀二年に遣唐使と為った仲麿は渡唐して、この後、帰朝せず、漢家の楼上において餓死した。吉備大臣が、後に唐に渡った時に、鬼形となって見参し、吉備大臣 と言談して唐土の事を相教えた。仲麿は帰らなかった人である。歌を読む事に禁忌が有るというわけではないが、あまり愉快なものではない。如何であろうか。師清が手ずから返答をしたためた

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

件(くだん)の歌は、仲丸の読んだ歌だと記憶している。彼は、遣唐使であったはずだ。日本にやってきたのか。唐でこの歌を読んだのか。何事があってやってきたというのか。禁忌が有る事なのか。永久四年三月に或る人が師遠に問うた。

筆者考察

 この文は、平安末期に書かれた大江匡房の言動をまとめた「 江談抄」に、「吉備入唐の間の事」「吉備大臣の昇進の次第」の次に書かれている文です。

 この文章の構成は、下文の匿名の人物の疑問を、師清(中原師清)が大江匡房の「吉備入唐の間の事」を引き合いに出して返答するという形になっています。

 ・・・・しかし、この返答はいかにもおかしい・・・。
 下文の匿名の人物は、「天の原ふりさけ見れば」の歌は、唐の国で読まれた歌ではなく、阿倍仲麻呂が日本にやってきて読んだ歌だと考えていて、そうだとし たら何の目的があって日本にやって来たのかと聞いているわけです。そして、それが隠されているのは、禁忌に触れる事があるからなのかと聞いているわけで す。
 これを、師清は、仲麻呂は、唐の国で殺され、鬼となり、日本に帰って来なかった人物なので、仲麻呂の歌を読む事は、喜ばれないのだと答えているわけですが・・・・問題をすり替えているだけで、全く、答えになっていません。

 この疑問を投げかけた人が誰なのか?という点について、この文はわざと隠していますし、しかも、彼は、師清ではなく、師清の父である師遠に聞いているわけです。
 手ずから返答をしたためたというなら、それは、師遠でなくてはなりません・・・。

 私は、この或る人とは、朝廷の中でも、大きな力を持った人物で、この人物の発言が、朝廷内で、しばらく問題になっていたと見ます。
 そして、息子である師清の代になって、ようやく、なんとか回答をこねくり出したのだと考えます。
(おそらく、学者である師遠も師清も、本当の答えを知っていたでしょう・・・しかし、これは、ぜったいの秘密で隠しておく必要があったに違いありません。)

 いずれにせよ、この文は、平安末期の人々が、阿倍仲麻呂が日本に帰ってきていたのではないかという疑いをいだいていて、そこに重要な秘密が隠されているのではないかと考えていた事を伝えてくれています。

 そして、もう一つ、興味深いのは、ここに永久四年(1116年)という日付けが書かれている事です。
 ここから、この文が大江匡房の語ったものではなく(大江匡房の没年は、1111年)後になって付け加えられたものだという事がわかります。

 「 江談抄」が、大江匡房の語ったオリジナルから改変が加えられている事の一つの証拠と言えるでしょう。

 何故、人々が、この江談抄に「阿倍仲麿 歌を読む事」を付け加えなければならなかったのか?
 とても面白いですね。

参考2

『今昔物語集』巻24「安陪仲麿、於唐読和歌語第四十四」
今昔(いまはむかし)、安陪仲麿と云(い)ふ人有けり。遣唐使として物を令習(ならはしめ)むが為に、彼国に渡けり。
数(あまた)の年を経て、否(え)返り不来(こざ)りけるに、亦此国より□□と云ふ人、遣唐使として行たりけるが、返り来けるに伴なひて返りなむと て、明州と云所の海の辺にて、彼の国の人餞(はなむけ)しけるに、夜に成て月の極(いみじ)く明かりけるを見て、墓(はか)無(な)き事に付ても、此の国 の事思ひ被出(いでられ)つゝ、恋く悲しく思ひければ、此の国の方を詠(なが)めて、此(かく)なむ読(よみ)ける、

あまのはらふりさけみれはかすがなるみかさの山にいてしつきかも

と云(いひ)てなむ泣ける。此れは、仲丸、此国に返て語(かたり)けるを聞(きき)て語り伝へたるとや

訳文

『今昔物語集』巻24「安倍仲麿 唐に於いて和歌を読む事 第44」
今は昔となりましたが、安倍仲麿という人がいました。遣唐使として勉強するために、唐の国へと渡りました。多くの年数が経っても、帰って来る事が出来ませ んでした。また、この日本から□□□□という人が、遣唐使として行きましたが、仲麿は、この人の日本に帰るのに伴って帰ろうとしました。明州という所の海辺で、唐の国の人達 が仲麿のために餞別の宴を開いてくれましたが、夜になって、月がとっても明るいのを見て、こんな・・・ほんの些細(ささい)な事につけても、日本の事が思い出されて、恋しく悲しく思えました 。そこで日本の方を眺めて、次のように詩を詠みました。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

こう云って泣いたといいます。此れは、仲丸(仲麻呂)が、此の国に返って、語ったのを聞いて語り伝えたものだそうです。

筆者考察

 この文は、「 江談抄」とほぼ同じ頃、平安末期に書かれた「今昔物語集」に掲載された阿倍仲麻呂の歌に関する逸話です。

 □□□□の部分が脱落してわかりませんが、この逸話から、一般的に「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の詩は、阿倍仲麻呂が吉備真備の2度目の訪唐の時に一緒に帰国しようとした時に唐の国で詠んだものだと云われています。

 ・・・・しかし、文章をよく読み、考えると面白い・・・。
 文は、仲麻呂が明州の港で歌を詠んだと伝えています。しかし、吉備真備が、2度目の訪唐の時の帰りに利用した港は、実は、明州ではなく、蘇州なのです。本当に、これは、吉備真備と一緒に帰国しようとした時の話でしょうか?
 しかも、文章は、仲麻呂が、日本に帰って来て、語ったのを伝えていると記しています。
 「仲麻呂が、日本に返って、語ったのを聞いて語り伝えた」という一文は、ほぼ同様の内容を伝える「古今和歌集」や「古本説話集」「世継物語」にはありませ ん。ですから、現在、この文は、作者の無知による間違いであるとされていますが・・・もしも、「今昔物語集」が、本当に、その頃、残っていた噂を伝えているのであれば面白い想像が浮かんできます。

 「三体月伝説の本当の意味」で述べますが、楊貴妃が、日本に旅立った港は、明州だと考えられるのです。
 阿倍仲麻呂が、楊貴妃を伴って、日本に帰ってきているのだとしたら・・・・このお話は、それを伝えているのかもしれません。

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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