参考1
江談抄 第三の(三)「阿倍仲麿読歌事」
霊亀二年為遣唐使、仲麿渡唐之後不帰朝。於漢家楼上餓死。吉備大臣之後渡唐之時、見鬼形、与吉備大臣言談相教唐土事。仲麿不帰人也。読歌難不可有禁忌。尚
不快歟、如何。師清手返也。
アマノハラフリサケミレハカスカナルミカサノヤマニイテシ月カモ
件歌ハ仲丸読歌ト覚候。遣唐使ニヤマカリタリシ。唐ニテ読歟如何。何事ニマカリタリシソ。
可有禁忌之事歟。永久四年三月或人問師遠。
訳文
江談抄 第三の(三)「阿倍仲麿 歌を読む事」 霊
亀二年に遣唐使と為った仲麿は渡唐して、この後、帰朝せず、漢家の楼上において餓死した。吉備大臣が、後に唐に渡った時に、鬼形となって見参し、吉備大臣
と言談して唐土の事を相教えた。仲麿は帰らなかった人である。歌を読む事に禁忌が有るというわけではないが、あまり愉快なものではない。如何であろうか。師清が手ずから返答をしたためた。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
件(くだん)の歌は、仲丸の読んだ歌だと記憶している。彼は、遣唐使であったはずだ。日本にやってきたのか。唐でこの歌を読んだのか。何事があってやってきたというのか。禁忌が有る事なのか。永久四年三月に或る人が師遠に問うた。
筆者考察
この文は、平安末期に書かれた大江匡房の言動をまとめた「
江談抄」に、「吉備入唐の間の事」「吉備大臣の昇進の次第」の次に書かれている文です。
この文章の構成は、下文の匿名の人物の疑問を、師清(中原師清)が大江匡房の「吉備入唐の間の事」を引き合いに出して返答するという形になっています。
・・・・しかし、この返答はいかにもおかしい・・・。
下文の匿名の人物は、「天の原ふりさけ見れば」の歌は、唐の国で読まれた歌ではなく、阿倍仲麻呂が日本にやってきて読んだ歌だと考えていて、そうだとし
たら何の目的があって日本にやって来たのかと聞いているわけです。そして、それが隠されているのは、禁忌に触れる事があるからなのかと聞いているわけで
す。
これを、師清は、仲麻呂は、唐の国で殺され、鬼となり、日本に帰って来なかった人物なので、仲麻呂の歌を読む事は、喜ばれないのだと答えているわけですが・・・・問題をすり替えているだけで、全く、答えになっていません。
この疑問を投げかけた人が誰なのか?という点について、この文はわざと隠していますし、しかも、彼は、師清ではなく、師清の父である師遠に聞いているわけです。
手ずから返答をしたためたというなら、それは、師遠でなくてはなりません・・・。
私は、この或る人とは、朝廷の中でも、大きな力を持った人物で、この人物の発言が、朝廷内で、しばらく問題になっていたと見ます。
そして、息子である師清の代になって、ようやく、なんとか回答をこねくり出したのだと考えます。
(おそらく、学者である師遠も師清も、本当の答えを知っていたでしょう・・・しかし、これは、ぜったいの秘密で隠しておく必要があったに違いありません。)
いずれにせよ、この文は、平安末期の人々が、阿倍仲麻呂が日本に帰ってきていたのではないかという疑いをいだいていて、そこに重要な秘密が隠されているのではないかと考えていた事を伝えてくれています。
そして、もう一つ、興味深いのは、ここに永久四年(1116年)という日付けが書かれている事です。
ここから、この文が大江匡房の語ったものではなく(大江匡房の没年は、1111年)後になって付け加えられたものだという事がわかります。
「
江談抄」が、大江匡房の語ったオリジナルから改変が加えられている事の一つの証拠と言えるでしょう。
何故、人々が、この江談抄に「阿倍仲麿 歌を読む事」を付け加えなければならなかったのか?
とても面白いですね。
参考2
『今昔物語集』巻24「安陪仲麿、於唐読和歌語第四十四」
今昔(いまはむかし)、安陪仲麿と云(い)ふ人有けり。遣唐使として物を令習(ならはしめ)むが為に、彼国に渡けり。
数(あまた)の年を経て、否(え)返り不来(こざ)りけるに、亦此国より□□と云ふ人、遣唐使として行たりけるが、返り来けるに伴なひて返りなむと
て、明州と云所の海の辺にて、彼の国の人餞(はなむけ)しけるに、夜に成て月の極(いみじ)く明かりけるを見て、墓(はか)無(な)き事に付ても、此の国
の事思ひ被出(いでられ)つゝ、恋く悲しく思ひければ、此の国の方を詠(なが)めて、此(かく)なむ読(よみ)ける、
あまのはらふりさけみれはかすがなるみかさの山にいてしつきかも
と云(いひ)てなむ泣ける。此れは、仲丸、此国に返て語(かたり)けるを聞(きき)て語り伝へたるとや
訳文
『今昔物語集』巻24「安倍仲麿 唐に於いて和歌を読む事 第44」
今は昔となりましたが、安倍仲麿という人がいました。遣唐使として勉強するために、唐の国へと渡りました。多くの年数が経っても、帰って来る事が出来ませ
んでした。また、この日本から□□□□という人が、遣唐使として行きましたが、仲麿は、この人の日本に帰るのに伴って帰ろうとしました。明州という所の海辺で、唐の国の人達
が仲麿のために餞別の宴を開いてくれましたが、夜になって、月がとっても明るいのを見て、こんな・・・ほんの些細(ささい)な事につけても、日本の事が思い出されて、恋しく悲しく思えました
。そこで日本の方を眺めて、次のように詩を詠みました。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
こう云って泣いたといいます。此れは、仲丸(仲麻呂)が、此の国に返って、語ったのを聞いて語り伝えたものだそうです。
筆者考察
この文は、「
江談抄」とほぼ同じ頃、平安末期に書かれた「今昔物語集」に掲載された阿倍仲麻呂の歌に関する逸話です。
□□□□の部分が脱落してわかりませんが、この逸話から、一般的に「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の詩は、阿倍仲麻呂が吉備真備の2度目の訪唐の時に一緒に帰国しようとした時に唐の国で詠んだものだと云われています。
・・・・しかし、文章をよく読み、考えると面白い・・・。
文は、仲麻呂が明州の港で歌を詠んだと伝えています。しかし、吉備真備が、2度目の訪唐の時の帰りに利用した港は、実は、明州ではなく、蘇州なのです。本当に、これは、吉備真備と一緒に帰国しようとした時の話でしょうか?
しかも、文章は、仲麻呂が、日本に帰って来て、語ったのを伝えていると記しています。
「仲麻呂が、日本に返って、語ったのを聞いて語り伝えた」という一文は、ほぼ同様の内容を伝える「古今和歌集」や「古本説話集」「世継物語」にはありませ
ん。ですから、現在、この文は、作者の無知による間違いであるとされていますが・・・もしも、「今昔物語集」が、本当に、その頃、残っていた噂を伝えているのであれば面白い想像が浮かんできます。
「三体月伝説の本当の意味」で述べますが、楊貴妃が、日本に旅立った港は、明州だと考えられるのです。
阿倍仲麻呂が、楊貴妃を伴って、日本に帰ってきているのだとしたら・・・・このお話は、それを伝えているのかもしれません。
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