龍神楊貴妃伝

輪王灌頂(天皇の吒枳尼信仰と熊野三山信仰)

●荒廃していた高野山

 皆さんは、高野山は、空海が開山してから、ずっと、隆盛(りゅうせい)を続けて 来たように感じているかもしれません。
 しかし、史実はそうではありません。
 正暦(しょうりゃく)5年(994)、高野山は雷火(らいか)にあって大打撃を受けました。御影堂(みえいどう)だけは、かろうじて消失をまぬがれまし たが、ほとんどの建物が灰燼(かいじん)に化してしまいました。

●同時に起った熊野信仰と高野山信仰ブーム

 途中、治安(じあん)3年(1023)、摂関政治(せっかんせいじ)を築いた藤原道長(ふじわらのみちなが)の最晩年に参詣を受けたりはしましたが、寛 治(かんじ)2年(1088)、白河上皇の参詣を受けるまで、高野山は、約1世紀の間、荒廃(こうはい)していたと伝えられます。
 それから、高野山は、鳥羽院、後白河院と参詣を受け、手厚い朝廷の庇護(ひご)のもとに隆盛期(りゅうせいき)を迎える事になります。
 ちょうど、熊野信仰の隆盛期(りゅうせいき)と時期が一致しています。
 これは、ただの偶然ではなかったでしょう。
 私は、高野山信仰と熊野信仰は、一体のものであったと考えます。

●大江匡房の関与した天皇の即位法「輪王灌頂」

 昔、天皇の即位式において、「輪王灌頂(りんおうかんじょう)」というものが行われたそうです。これは、天皇の即位式(そくいしき)を密教の修法儀礼 (しゅほうぎれい)として行ったもので、院政期初頭の後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の即位式において最初に行われたと伝えられます。この事は、鎌倉 初期の慈円(じえん)の「夢想記(むそうき)」という書の中にあり、慈円は、これを大江匡房(おおえのまさふさ)(「江談抄(ごうだんしょう)」「狐媚記(こびき)」の作者である・・・あの大江匡房!!)の記録であると伝えています。

 「輪王灌頂」は、陰陽道(おんみょうどう)・密教修法としての聖天法(しょうてんほう)、及び、吒枳尼天法(だきにてんほう)が行われました。
 大江匡房は、後三条天皇より年下ですが、後三条天皇が尊仁親王(たかひとしんのう)であった時代から学士として信頼を得ており、後三条天皇が即位すると 蔵人(くろうど)に任ぜられています。おそらく、天皇即位にあたって、この「輪王灌頂」を行う事を提案したのも、大江匡房だったでのではないでしょうか?  

●院政、伏見稲荷信仰、輪王灌頂を始めた後三条天皇

 院政を始め、熊野参詣を始めたのは、白河法皇です。しかし、その構想を最初に抱いていたのは、後三条天皇であったかもしれません。
 延久4年(1072)、即位後4年にて第一皇子貞仁親王(白河院)に譲位して院政を開こうと図りましたが、翌年に病に倒れ、40歳で崩御したと伝えられます。
 私は、もし、もう少し、長生きをしていれば、最初に、熊野参詣を行なっていたのも後三条天皇であったに違いないと思っています。

 この延久4年(1072)3月26日には、後三条天皇は、天皇として初めての伏見稲荷の行幸も行ないました。
ニコニコ大百科 伏見稲荷大社とは 歴史1072年の項参照 http://dic.nicovideo.jp/a/伏見稲荷大社


 とにかく、後三条天皇が、院政政治の源であり、最初の伏見稲荷の行幸を行なった天皇であり、最初の「輪王灌頂」を行なった天皇である事は間違いありませ ん。

●輪王灌頂は、密教、稲荷信仰、熊野三山信仰と結びついていた

 この時の「輪王灌頂」がどのようなものだったか、詳しくはわかりませんが、その後に行われた「輪王灌頂」 について、名古屋大学研究論集 阿部泰郎氏の「中世宗教思想文献の研究〔三〕 : 架蔵『輪王灌頂口伝』翻印(ほんいん)と解題(かいだい)」から一部を抜粋します。

 「この即位法(そくいほう)(輪王灌頂(りんおうかんじょう))一結(いっけつ)の甲群(こうぐん)に連(つら)なるものとして、外題(げだい)のみな らず本文も全て釼阿(けんな)筆になる『輪王灌頂(りんおうかんじょう)口決(くけつ)私(し)』一帖(いちじょう)がある。これは真言法を含む天台方 の即位法で、これをやはり 輪王灌頂として説く口決(くけつ)である。はじめに即位灌頂(そくいかんじょう)について「帝王即位儀」の作法から説き、次いで印明(いんみょう)作法 (さほう)について十種にわたり順次説いていく。就中(なかんづく)、「盤惣印(ばんそういん)」の説を含み、これも盤法(ばんほう)と関連するものであ り、末(すえ)に法花(ほっけ)四要品の説を挙げて、甲群『即位』と同じく真言と天台を摂(せっ)した顕密仏教(けんみつぶっきょう)の法としての特質を 備えている。また、末尾には智證(ちしょう)大師として稲荷(吒枳尼(だきに))と熊野権現を同体として「(熊野)三山悉(ことごと)ク吒枳(だてん) 也」と明かす。これはその末に「隆弁(りゅうべん)伝」と注され、鎌倉中期に鶴岡別当として幕府に仕え三井寺(みいでら)長吏(ちょうり)となった隆弁 僧正の所説と思(おぼ)しく、つまり寺門派の伝えた即位の口決と思しい。」

 研究論文ですし、ややこしい書き方ですが、輪王灌頂が、密教、稲荷信仰、熊野三山信仰の影響を受けて行なわれていたものであることがわかります。同時 に、空海の甥(おい)(あるいは、姪(め い)の息子)でもある智證(ちしょう)大師(円珍)が文に登場している事にも注目です。

 熊野三山信仰が、稲荷信仰・密教の思想と強く結びついて考えられていた事、その貴族達の信仰ブームが、おそらく後三条天皇の時代に始まり、天皇家の信仰 と強く 結びついていた事・・・その信仰ブームの始まりに「大江匡房」がいた事・・・・この時までに、楊貴妃信仰が、空海の一族である円珍を始祖とする天台寺門派によって、熊野三山信 仰として確立していた事・・・・輪王灌頂は、これらの事を伝えてくれています。

 参考
大江匡房 治暦(じりゃく)3年(1067年)、東宮・尊仁(たかひと)親王の学士に任じられる。学士を務める中で尊仁親王の信頼を得て、治暦4年 (1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると蔵人に任ぜられる。翌延久(えんきゅう)元年(1069年)、左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼 ね三事兼帯の栄誉を得る。また、東宮・貞仁親王(のち白河天皇)の東宮学士も務める。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあ たって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。

中世宗教思想文献の研究〔三〕 : 架蔵『輪王灌頂口伝』翻印(ほんいん)と解題(かいだい)」
「名古屋大学学術機関リポジトリ中世宗教思想文献の研究〔三〕
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/12942

釼阿(けんな)(1261-1338)
鎌倉-南北朝時代の僧。弘長(こうちょう)元年生まれ。武蔵(むさし)金沢(かなざわ)(神奈川県)称名(しょうみょう)寺の審海(しんかい)に師事 し,延慶(えんぎょう)元年その跡をつぐ。醍醐(だいご)流,勧修寺(かじゅうじ)流などの法流を相伝し、同寺の真言密教を大成した。金沢貞顕(かなざわ さだあき)の助けをえて、七堂伽藍(がらん)の整備につとめた。吉田兼好(よしだけんこう)と交流があった。暦応(りゃくおう)元=延元(えんげん)3年 11月16日死去。78歳。号は明忍房(みょうにんぼう)。

円珍(えんちん)(弘仁(こうにん)5年3月15日(814年4月8日)- 寛平(かんぴょう)3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗(てんだいしゅう)の僧。天台(てんだい)寺門(じもん)宗の宗祖。諡 号(しごう)は智証大師(ちしょうだいし)(智證大師)。入唐八家(最澄(さいちょう)・空海・常暁(じょうぎょう)・円行(えんぎょう)・円仁(えんに ん)・恵運(えうん)・円珍・宗叡(しゅうえい))の一人。(中略)空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。
ウィキペディア  http://ja.wikipedia.org/wiki/円珍
円珍について(筆者考察)
円珍は、母が空海の妹か姪であったとされる。空海の母は阿刀氏であり、熊野国造も阿刀氏であるから、円珍も、この関係から、熊野国と関係していただろ う。しかし、円珍は、俗名を因支首(いなぎおびと)だったと伝えられ、後に、因支氏は、和気氏を名乗ったと伝えられている。和気氏と関係があるのだとすれ ば、円珍は、和気広虫(わけのひろむし)や清麻呂(きよまろ)とも何か関係があったかもしれない。
円珍は、最澄のおこした天台宗を引き継いだが、円珍が空海を強く敬愛していたのは疑いない。
円珍が入唐した時、開元寺の恵灌に出会い、「五筆和尚は健在か否か」と尋ねられたという。五筆和尚は空海のことだと気づいた円珍が亡くなったと伝えると、 恵灌は号泣し「未曾有の異芸」を讃えて故人を追憶したという。この事は、円珍の記録として、園城寺(三井寺)に残されている。又、この文書には、円珍が、在唐中に、白居易の墓を訪れた事も書かれている。
「寺主僧惠潅借問五筆和尚在無、円珍悟知此. 故大僧正空海□法師、 便. 答亡化、惠潅槌胸悲慕、称歎異芸未曾」
「廻至龍門西崗、尋金剛智阿闍梨墳塔、遂獲礼拝、兼抄塔銘、便望伊川東岸、看故大保白居易之墓」

隆弁(りゅうべん)(承元(じょうげん)2年(1208年)- 弘安(こうあん)6年8月15日(1283年9月7日))は、鎌倉時代中期の天台宗(てんだいしゅう)寺門(じもん)派の僧侶・歌人。父は四条隆房(し じょうたかふさ)・母は葉室光雅(はむろみつまさ)の娘。初名(しょめい)・光覚。通称・大納言(だいなごん)法印(ほういん)、如意寺(にょいじ)殿、 聖福寺(しょうふくじ)殿。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・園城寺(おんじょうじ)別当(べっとう)・長吏(ちょうり)、大僧正(だいそうじょ う)・大阿闍梨(だいあじゃり)。北条(ほうじょう)得宗(とくそう)家と結びついて園城寺を再興し、「鎌倉の政僧」の異名を持った。
ウィキペディア http: //ja.wikipedia.org/wiki/隆弁

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


ペーパーバック版、電子書籍版

龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


ペーパーバック版、電子書籍版