龍神楊貴妃伝

楊貴氏墓誌の謎(楊貴氏墓誌は、なぜ作られたか?)

●日本人とは何か?

 楊貴妃が、日本で、日本人として生きるために・・・・一番、何が必要だったでしょうか?

 我々が、日本人であるというのは、人種(じんしゅ)ではなく、日本語をしゃべる事でも、日本で生まれた事でも、日本に住んでいる事でもありません。日本 人であるというのは、日本国籍(にほんこくせき)・・・すなわち、戸籍(こせき)に登録されているかどうか?という事によって決まります。
 考えてみれば恐ろしいことですが・・・戸籍に登録されていなければ、いくら自分自身が実際に存在していると主張しても、国民としては認められず・・・国からの保護(ほご)も受けられません。
 この楊貴妃が生きていた奈良の時代でも、事情は変わりませんでした。
 日本人として認められるためには、戸籍に登録されている必要があったのです。この時代には、戸籍に登録されていない人間も、多数いたでしょうが・・・・その人達は、国民ではなく、奴婢(ぬひ)であり、賎民(せんみん)でした。

●奈良時代の戸籍裁判

 天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)7月12日の続日本紀の記事に、次のような事が書かれています。
 原文がきわめて長いので、要旨(ようし)だけを書きます。

 紀袁祁臣(きのおけおみ)の娘、粳売(ぬかめ)は、内原直牟羅(うちはらのあたいむら)に嫁いで、身売(みめ)・狛売(こまめ)の2人の子を産んで、紀 寺(きでら)で働いていましたが、持統(じとう)4年(690)の戸籍作成の時、彼らを奴婢(ぬひ)としてしまったので、それを訂正して欲しいとの訴えが ありました。
 調べたところ、氏姓の根本を定めた天智天皇(てんじてんのう)の庚午(かのえうま)年籍(ねんせき)(670年)の戸籍の中に彼らの名前が賎民(せんみ ん)として記されてありました。しかし、賎民(せんみん)とされた者には、賎民(せんみん)とされた理由が書いてあるはずですが、彼らには、その理由が記 載(きさい)されていません。そこで、どちらが正しいのか判断が出来ないので、天皇の裁断(さいだん)をお願いする事としました。
 それに対し、高野天皇(孝謙上皇)は、罪が疑わしい時は、軽い方に従い、良民(りょうみん)とすべきであると裁断(さいだん)を下されました。
 そして、その子孫である訴えた益麻呂(ますまろ)ら12人は、賎民(せんみん)の身分を解放し紀朝臣(きのあそん)の姓を与えられ、真玉女(またまめ)ら59人には内原直(うちはらのあたえ)の姓が与えられ、京の戸籍に編入されたと書かれています。

 この出来事から読み取れることは・・・この時代でも、日本国民として認められるには、戸籍に登録されている事が大事であった・・・ということです。同時に、正統な理由や証拠を提示出来れば、戸籍を書き換えるチャンスもあった・・・・ということも読み取れます。

●楊貴妃はどうやって日本国籍を手に入れたか?

 国家に認められた・・・例えば、鑑真和上(がんじんわじょう)のような外国人なら、駐留外国人(ちゅうりゅうがいこくじん)として戸籍に登録されないま ま生きるという事も出来たでしょう。・・・・しかし、不法滞在外国人(ふほうたいざいがいこくじん)である楊貴妃が良民(りょうみん)として生きるため は、戸籍を捏造(ねつぞう)する必要があったでしょう・・・。
 いったい、楊貴妃は、どのように・・・どのような形で、日本国籍(にほんこくせき)を手に入れたのでしょう?

 その答えのヒントを与えてくれるのが・・・・「空海の謎」に登場した「楊貴氏墓誌(やぎしぼし)」だ・・・・と私は、考えています。

 「楊貴氏墓誌」は、前に、書いたように、江戸時代に発見された吉備真備の母の墓に、一緒に、埋められていたという墓銘誌(ぼめいし)のことです。
 ここに、吉備真備の母が、「楊貴氏」だと書かれている事も、既に述べたとおりです。
 昔から、この吉備真備の母が、「楊貴氏」だと書かれている理由が、楊貴妃と関係があるのではないか?と言われてきたわけですが・・・・この母親の亡く なったと書かれている年代・・・・ 天平(てんぴょう)11年(739)には、まだ、楊貴妃は、貴妃(きひ)にはなっていなかった事・・・・また、楊貴妃は、貴妃(きひ)が、妃(きさき)と しての位(くらい)(尊称(そんしょう))であって、楊貴では意味をなさない・・・・として・・・現代では、「楊貴氏墓誌」は、「楊貴妃」との関係を否定 されています。

 年代については、墓銘誌(ぼめいし)を造ったのが、母親が亡くなってから、だいぶ後のことであったとも考えられるわけですが、記載(きさい)されている 吉備真備の身分・役職が、「従五位上(じゅうごいじょう)、守右衛士府(うえじふ)、兼(けん)、中宮亮(ちゅうぐうりょう)」と、母親が亡くなった時に 相当する位であり、もし、後の製作であれば、その造った時の身分・役職が、書かれているのが普通だ・・・・とこれも否定されています。

 しかし、今、私の考えるように、この「楊貴氏墓誌」が、楊貴妃の戸籍(こせき)を捏造(ねつぞう)するために創(つく)られたのだとしたらどうでしょう?

●楊貴氏墓誌は、楊貴妃の戸籍を捏造するために作られた

 吉備真備の頭の中には、自分が中国に滞在(たいざい)している時に、「真吉備」から「真備」に改名した事・・・・そして、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が、「仲満」と名乗った事があったでしょう。楊貴妃にも、日本風の名前を名乗らせようと考えたでしょう。

 そこで思いついたのが、楊貴妃(やうきひ)を、楊(やう)・貴妃(きひ)ではなく、日本風に・・・楊貴(やうき)・妃(ひ)・・・・・すなわち、 楊貴氏(やぎし=やうきし)の娘とする事ではなかったでしょうか?
 そこで、自分の母親が八木(ヤギ)氏であったのを利用し、墓銘誌(ぼめいし)を造ることによって、ヤギを 楊貴と書くのだという既成事実(きせいじじつ)を用意した・・・・これが「楊貴氏墓誌」なのではないでしょうか?

 もちろん、この場合、吉備真備は、この墓銘誌を造った時を、自分の母親が亡くなった頃だ・・・・としたかったでしょう。そこで、自分の身分・役職を、母 親が亡くなった時の身分である「従五位上(じゅうごいじょう)、守右衛士府(うえじふ)、兼、中宮亮(ちゅうぐうりょう)」と書き込んだ・・・。
 それを用意した上で、吉備真備は、 楊貴妃を、自分が最初の渡唐(ととう)をしている間に産まれた・・・・母方(ははかた)の姓を名乗っている自分の妹だ・・・・・として、周りの人間に紹介したのではないでしょうか?

 すなわち、 吉備真備は、嘘(うそ)の裏側に、巧(たく)みに真実を混ぜ・・・真実を隠蔽(いんぺい)した・・・・むろん、真実を把握(はあく)している人間もいたか もしれませんが・・・・これが、重大な出来事であるだけに、吉備真備の嘘(うそ)につき合う形になったでしょう。

 大江匡房(おおえのまさふさ)の「江談抄・吉備入唐の間の事」の中には、吉備真備が、古い暦に文選を書き、これを古いものにみせかけるシーンがえがかれ ています。もちろん、このお話は、大江匡房の創作ですが、吉備真備がこのような策略家であったと、当時、伝わっていたのかもしれません。そして、私の想像 通りであるなら、吉備真備は、「楊貴氏墓誌」の他にも幾つもの楊貴妃の身元を証明する証拠を捏造していたことでしょう。

●楊貴氏を名乗っていた楊貴妃

 少し話が飛びますが、先に、龍神村に楊貴妃が隠れていた根拠(こんきょ)の一つとして、江戸時代の図に記載(きさい)されている「ヤウキヒ桜」をあげました。
 実は・・・「ヤウキヒ桜」と記載(きさい)されているのは、実は、幕末(ばくまつ)の時の絵図だけで・・・・私の確認した他の絵図、「紀伊の国名所絵図(めいしょえず)」や明治時代のエッチングには、「ヤウキ桜」と記載されています。
 これから考えると、龍神村の楊貴妃桜は、本当は、「ヤウキ桜」と呼ぶのが正しいのかもしれません。

 龍神村に潜(ひそ)んでいる時、 楊貴妃は、「楊貴氏(やうきし)」・・・「ヤギ=ヤウキ」を名乗っていたのではないでしょうか?

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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