●滅び去った真言宗の一派・真言立川流
「三体月伝説の意味」でも少し紹介しましたが、空海の作り出した真言密教には、真言立川流という流派がありました。
今は、弾圧を受け、邪法として滅び去りましたが、鎌倉時代から室町時代にかけては、一大勢力を誇っていたようです。この邪法は、性交を通じて、即身成仏に至ろうとするもので、生身の骸骨を本尊にしたと言われています。
今は、無くなった流派ですので、その実態の詳しい事は、わかりませんが・・・この立川流を糾弾(きゅうだん)した鎌倉時代中期の僧「誓願
房正定(せいがんぼうせいじょう)」の文永(ぶんえい)7年(1270)に書いた「受法用心集(じゅほうようじんしゅう)」によって、その内容が
伝わって
います。
●受法用心集に書かれた「真言立川流」とは?
「受法用心集」から、その内容を抜粋(ばっすい)します。難しいので適当に拾い読みしてください。
「此の故(ゆえ)に吒天(だてん)の行者は此の天等の好む処(ところ)の魚鳥の肉類、人身の黄燕(おうえん)を
以(もっ)て常に供養すれば此の本尊
(ほんぞん)歓喜(かんぎ)納受(のうじゅ)して行者の所望(しょもう)を成就(じょうじゅ)すること速(すみやか)なり。又(また)人頭(じんとう)狐
頭(ことう)等を壇上(だんじょう)に置(おき)て此の種々の供物(くもつ)を備(そなえ)て行ずれば吒枳尼天(だきにてん)此(こ)の頭骨の中に入住
(にゅうじゅ)して彼(か)の三魂七魄(さんこんしちはく)を使者として種々の神変(しんぺん)を現じ、無数の法術をほどこす。」
「此の邪法(じゃほう)修行の作法とは彼(か)の法の秘(ひ)口伝(くでん)に云(いわ)く、此(こ)の秘法を修行して大悉地(だいしっち)を得
(え)んと思はば本尊を建立(こんりゅう)すべし。女人(にょにん)の吉相(きっそう)の事は今(いま)注(ちゅう)するにあたはず。其(そ)の御衣木
(みそぎ)と云(いう)は髑髏(どくろ)なり。此(こ)の髑髏(どくろ)を取るに十種の不同(ふどう)あり。一には智者(ちしゃ)、二には行者
(ぎょう
じゃ)、三には国王(こくおう)、四には将軍(しょうぐん)、五には大臣(だいじん)、六には長者(ちょうじゃ)、七には父、八には母、九には千頂(せん
ちょう)、十には法界髑(ほうかいどく)なり。此の十種の中に八種は知り易(やす)し。千頂(せんちょう)とは千人の髑髏(どくろ)の頂上を取り集めてこ
まかに末(まっ)してまろめて本尊を作るなり。法界髑(ほうかいどく)とは重陽(ちょうよう)の日、死陀
林(しだりん)にいたりて数多の髑髏(どくろ)
を集め於(おき)て日々に行して吒枳尼(だきに)の神呪(しんじゅ)を誦(しょう)して加持(かじ)すれば、下におけるが常に上にあがりて見ゆるを取るべ
し。」
「是(こ)れを建立(こんりゅう)するに三種の不同(ふどう)あり。一に大頭(だいとう)、二には小頭(しょうとう)、三には月輪形(げつりんぎょう)
なり。大頭とは本(ほん)髑髏(どくろ)をはたらかさず(もとのままに)しておとがいをつくり、舌をつくり、歯をつけて、骨の上にムキ漆(うるし)にて
こくそをかいて、生身の肉の様によく見にくき所なくしたためつくり定(さだ)むべし。其(そ)の上をよき漆(うるし)にて能々(のうのう)ぬりて
箱の中に
納(おさ)めおきて、かたらいおける好相(こうそう)の女人(にょにん)と交会(こうかい)して其(そ)の和合水(わごうすい)を此(こ)の髑髏(どく
ろ)にぬる事百二十度ぬりかさぬべし。毎夜(まいよ)子丑(ねうし)の時には反魂香(はんごんこう)を焼(やき)て其(そ)の薫(かおり)をあつべし。反
魂(はんごん)の真言(しんごん)を誦(しょう)せん事千返(せんべん)に満(み)つべし。是(これ)の如(ごと)くして数日みなをはり(終わり)なば髑
髏(どくろ)の中に種々(しゅじゅ)相応(そうおう)物並(なみ)に秘密の符(ふ)を書て納(おさ)むべし。是(こ)れ等(ら)の支度(したく)よくよく
定(さだまり)らば頭の上に銀薄(ぎんはく)金薄(きんぱく)を各三重(さんじゅう)におすべし。其(そ)の上に曼荼羅(まんだら)をかくべし。曼荼羅
(まんだら)の上に金銀薄(きんぎんはく)をおすべし。如前(じょのまえ)、其(そ)の上に又(また)曼荼羅をかくべし。如是(じょのごとく)、押しかさ
ね書き重(つら)ぬる事、略分(りゃくぶん)は五重六重、中分(ちゅうぶん)は十三重、広分(こうぶん)は百二十重なり。曼荼羅を書く事、皆男女冥合
(みょうごう)の二H(にてい)を以(もっ)てすべし。舌唇(したくちびる)には朱(しゅ)をさし、歯には銀薄(ぎんはく)を押し、眼には絵の具にてわこ
わことうつくしく彩色(さいしょく)すべし。或(あるい)は玉を以(もっ)て入(い)れ眼にす。
面貌(めんぼう)白きものを塗り、べに(紅)をつけてみ(見)めよ(良)き美女の形の如(ごと)し。或(あるい)は童子の形の如(ごと)し。貧相(ひん
そう)なく、ゑ(笑)める顔にして嗔(いきどお)る形なくすべし。如是(じょのごとく)つくりたつる間に人の通(かよ)はぬ道場をかまへて種々の美物(び
ぶつ)美酒をととのへおき、細工と行人(ぎょうにん)と女人(にょにん)との外(ほか)は人を入れず、愁心(しゅうしん)なくして楽しみ遊びて正月三ケ日
の如(ごと)くいはい(祝い)て、言(げん)をも振舞(ふるまい)をもたやすべからず。已(すで)に作り立てつれば壇上(だんじょう)に据(す)えて山海
(さんかい)の珍物(ちんぶつ)魚(さかな)鳥(とり)兎(うさぎ)鹿(しか)の供具(きょうぐ)を備(そな)へて反魂香(はんごんこう)を焼き、種々
(しゅじゅ)にまつり行(ぎょう)ずる事、子丑寅(ねうしとら)の三時なり。卯(う)の時に臨(のぞ)まば、錦(にしき)の袋七重の中に裏(つつ)みこむ
べし。寵(かご)めて後はたやすく開くことなく、其の後は夜、行者のはだにあたため、昼は壇(だん)に据(す)えて美物(びぶつ)をあつめて養(やしな)
い行ずべし。昼夜に心にかけて余念(よねん)なかるべし。如レ(ことごとく)是(これを)いとなむこと七年に至(いた)るべし。八年になりぬれば行者に悉
地(しっち)を与ふべし。上品(じょうひん)に成就(じょうじゅ)する者は、此(こ)の本尊(ほんぞん)、言(げん)を出して物語(ものがたり)す。三世
(さんせい)の事を告(つ)げさとす故(ゆえ)に是(こ)れを聞きて振舞(ふるま)へば事(こと)神通(じんつう)を得たるが如(ごと)し。中品(ちゅう
ひん)に成就(じょうじゅ)する者は、夢の中に一切(いっさい)を告ぐ。下品(げひん)に成就(じょうじゅ)する者は夢うつつの告(おつげ)はなけれども
一切の所望(しょもう)、心の如(ごと)く成就(じょうじゅ)すべし」
簡単に説明すれば、この法は、人頭や狐頭を祀り、その中に吒枳尼(だきに)を棲(す)まわせ、その力によって、法術を得ようというもので、その為に、人
の骸骨(がいこつ)を採取し、骸骨本尊(どくろほんぞん)を作ります。しかし・・・ただ、骸骨を採取するといっても、普通の人の物では、ダメで、高貴な人
間の骸骨である必要があります。そして、その骸骨に 男女の性交によって生じた愛液(あいえき)を塗り
、生きた人間のように装飾(そうしょく)し祀(まつ)るというのです。
●性と生命の謎を追求した「真言立川流」
「受法用心集」は、真言立川流を攻撃した人間によって書かれたものです。本来の立川流派は、「受法用心集」に書かれたようなものではなく、人間の「性」
と「生命」の神秘を探求した流派であったようです。(例えば、「三体月伝説の意味」に揚げた三胡は、人間の生命の発生の神秘と讃歌を詠っているもので
す。)しかし、一部の
宗徒(しゅうと)の中には、「生命」の探求のあまり、先のような邪法(じゃほう)を行った者もいたのかもしれません。
●密教全体に広がっていた「反魂術」や「骸骨崇拝」
そして、これに似たような行いは、ただ、立川流にかぎったものではありませんでした。密教の中には、少なからず、始めから、死者を蘇(よみがえ)らせる
反魂術(はんごんじゅつ)や骸骨(どくろ)崇拝があったようです。
最近、オランダのド
レンデ博物館で展示されている仏像の中から、僧侶のミイラがまるまる発見されました。おそ
らく、「受法用心集」にえがかれた「髑髏本尊」は、これと同じようなものではなかったでしょうか?
平安末期の漂泊(ひょうはく)の詩人・西行(さいぎょう)は、高野山での修行中、人恋しさに耐えきれず、人骨を
集めて、反魂術を行い、人を造
ろうとしたと「撰集抄(せんじゅうしゅう)」にあります。(注 撰集抄(せんじゅうしゅう)
は、西行の著作とされ、この人を造る物語も、西行自身が語る
話として書かれていますが、撰集抄が西行の作である事は、現代では否定されています。)
●チベット密教にもあった「骸骨崇拝」
チベット密教でも、骸骨崇拝(どくろすうはい)が盛んに行われ、装飾品や杯(さかずき)にされました。
そして、チベットでも、真言立川流と同じ様に良い骸骨の見分け方というのがあったよう
で、信心深い人、或(あるい)は他の高尚(こうしょう)な特質を
持った人の骸骨が良いとされ、例えば、 高位・高官
・賢(けんじん)人・知者。なかでも最上なのが、キラキラと光る貝(かい)のごとく澄(す)んだ白色のもの。金の様(よう)に輝かしい黄色のもの、滑(な
め)らかな宝玉(ほうぎょく)のようなもの。手触(てざわ)りのすべすべして磨(みが)きのかかったもの。明瞭(めいりょう)な縫合線(ほうごうせん)が
ある以外、継(つ)ぎ目の見えない骸骨等が良いとされました。
●なぜ、楊貴妃の遺骨が崇拝されたか?
仏舎利が霊宝とみなされていた事は、まぎれもない事実ですが、他の聖人達の舎利も、また同じように霊宝だとみなされてきたことがわかります。
このような反魂術や骸骨崇拝を楊貴妃信仰と結びつけて考えた時、楊貴妃の遺骨が、どのような霊
宝だとみなされたか?・・・想像出来ないでしょうか?
仏舎利が、この世にたぐいまれなき霊宝とみなされていた事は間違いない事ですが、日本に渡って来ている仏舎利の多くが、偽物やまがい物である事は、当時
の人々も理解していたでしょう。
その点、楊貴妃の遺骨は、本物の「西王母」の舎利であり、「天照大神」の舎利であり、「大日如来」の舎利でした。
そして、同時に楊貴妃の遺骨は、不老不死の霊玉でもあったはずです。
真言立川流は、その教えの全てが否定され消失してしまいましたが、空海の伝えた真言密教の教えの一端を伝えていた事は確かです。真言立川流は空海の女神信仰の影響を強く受けて形成されたものではないでしょうか?
●楊貴妃の遺骨はどこにあるか?
楊貴妃の遺骨は、泉涌寺の舎利殿に・・・あるいは楊貴妃観音の胎内に納められ特別な崇拝を集めていました。しかし、これは、その一部です。
残りの舎利は、どこにあるでしょう?一部は、今熊野観音の十一面観音の中にあるかもしれません。あるいは、伏見稲荷や熊野・・・あるいは、東寺や三井寺(園城寺)にあるかも
しれません。高
野山には、確実にあるでしょう。
高野山は、何度も大火に襲われています・・・特に、昭和元年(1926)には、金堂が消失し、秘仏であった空海の手彫りと伝えられる本尊をはじめ、7体の仏像が消失しました。こういうことから、私は、高野山の楊貴妃の遺骨は、燃えて無くなってしまっているだろうと考えてきまし
た。しかし、最近・・・あるかもしれないと考えています。
それがどこにあるのか?
このサイトを読むのは、不特定多数・・・・特に、一部には、私の考えを利用しようとする狂信者や霊能者の方もいらっ
しゃいますから、これ以上、明らかにするわけにはいきません。
もし、例えば・・・・本当に、調査していただける研究者の方がいらっしゃいましたら、考えをお話しますので、ご連絡ください。
注釈・参考
誓願房正定(せいがんぼうせいじょう) 鎌倉中期の真言宗の僧。越前国(えちぜんのくに)
(福井県)豊原寺(とよはらじ)の僧。建長(けんちょう)3
(1251)年の春、上洛(じょうらく)の際に京都五条坊門(ごじょうぼうもん)地蔵堂(じぞうどう)において邪教の行者に会い、邪教の教相(きょうそ
う)事相(じそう)を受ける。その後、文永(ぶんえい)7(1270)年に『受法用心集』を著(ちょ)して、立川流を糾弾(きゅうだん)する。『受法用心
集』は、南北朝時代の高野山(こうやさん)の学僧宥快(ゆうかい)の著した『宝鏡鈔(ほうきょうしょう)』以前に立川流を攻撃した書として注目に値するだ
けでなく、その具体性から立川流を知るには必読の書ともいえよう。さらに、文永(ぶんえい)年間(1264〜75)にはすでに邪流が教義(きょうぎ)事相
(じそう)を完備(かんび)していたことや、立川流の名称が用いられていたこと、立川流が文観(ぶんかん)以前に大成(たいせい)されていたことなどを明
らかにしている。<参考文献>守山聖真『立
川邪教とその社会的背景の研究』
黄燕(おうえん)の意味は、未詳(みしょう)である。しかし、おそらく、これは、人黄(じんのう)の
事であろう。人間の頭蓋骨の頂上には、十字の割れ
目部分があるが、そこに六粒の天津霊(あまつひ)があり、これを人黄と呼んでいる。人黄は生き物の魂魄(こんぱく)で、呼吸と一緒に人体に出入りして命を
保ち、また、懐妊の種となって人身をつくる。吒枳尼(だきに)はこれをもって最上の美食とすると伝えられている。
悉地(しっち) 密教で、修行によって完成された境地
御衣木(みそぎ) 神仏の像を作るのに用いる木材
重陽(ちょうよう) 9月9日の節句(せっく)、陽数(奇数)の極である9が月と日に重なるこ
とからいい、重九(ちょうきゅう)ともいう。
ムキ漆にてこくそをかいて
漆(うるし)をいったん塗って、それを剥(は)ぎ取り、ゴミなどを除去する法であろう。現代でも、プラスチックにボンドなどの接着剤を塗ってゴミを除去
する事は、よく行なわれる方法である。(筆者)
鎌(かま)広野(こうや)に出(いで)て、人も見ぬ所にて、死人の骨をとり集めて、頭より足手
の骨をたがへで(違えで)つゞけ置きて、砒霜(ひそう)
と云(いう)薬を骨に塗り、いちごとはこべとの葉を揉(も)みあはせて後、藤(ふじ)もしは糸なんどにて骨をかゝげて、水にてたびたび洗ひ侍(はべ)りて
頭とて髪の生(は)ゆべき所にはさいかいの葉とむくげの葉を灰に焼きてつけ侍(はべ)り。土のうへに畳をしきて、かの骨を伏せて、おもく風もすかぬやうに
したゝめて、二七日置いて後、その所に行きて、沈(じん)と香(こう)とを焚(た)きて、反魂(はんごん)の秘術を行(おこな)ひ侍(はべ)り
撰集抄
撰集抄(せんじゅうしょう)は、作者不詳の説話集で西行に仮託されている。跋文(ばつぶん)に寿永(じゅえい)二年(1183)讃岐国(さぬきこく)善
通寺(ぜんつうじ)において作られたとあり、江戸時代まで西行の自作と信じられたが、後人(こうにん)の仮託(かたく)である事は研究の進展によって明白
になった。
異態習俗考/金城朝永 批評社
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