龍神楊貴妃伝

由利霊狐御子2(楊貴妃以前に熊野に祀られていた神)

 「結玉家津美御子」が・・・「由利霊狐美御子」の意味だ・・・という私の見解は、熊野学(くまのがく)を勉強した人なら一笑(いっ しょう)に付(ふ)すかもしれません。
 熊野学を勉強した人なら、「結」は「牟須美(ふすみ)(むすび)神」で那智大社(なちたいしゃ)の祭神、「玉」は新宮(しんぐう)速玉(はやたま)大 社、「家津美御子(けつみみこ)」は本宮(ほんぐう)の祭神の意味で、この3神を合体させたものが「結玉家津美御子」であると説明するでしょう。
 しかし・・・本当にそうでしょうか?

●速玉神は、イザナキである

 先に「楊貴妃隠棲3(楊貴妃の熊野信仰)」の中で、楊貴妃のいた頃の熊野に は、速玉神(はやたまかみ)と熊野牟須美神(くまのふすみかみ)が祀られていた事を述べました。
 私は、この速玉神(はやたまかみ)と熊野牟須美神(くまのふすみかみ)は、日本を創った二柱の兄妹神であるイザナキとイザナミであろうと考えています。

 このうち、速玉神がイザナキの意味であるのは、ほぼ確定でしょう。
 日本書紀には、イザナキとイザナミが決別し、此の国と根の国に分かれるシーンで、「乃(すなわ)ち唾(つば)く神を、号(なづ)けて速玉之男(はやたま のお)と日(もう)す。」日本書紀 岩波文庫より)とあります。

●牟須美神は、イザナミであった

 
産田神社
産田神社
三重県熊野市有馬町有馬中学の近くにあります
熊野牟須美神(くまのふすみかみ)がイザナミの意味だというのは、「速玉神がイザナキである」に比べると、立証が、少しややこしくなります。

 熊野は、イザナミの埋葬(まいそう)されている場所とされていたところです。
 日本書紀(にほんしょき)には、以下のように書かれています。
 「一書(いっしょ)に曰(い)はく、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、火神(ひのかみ)を生む時に、灼(や)かれて神(かみ)退去(さ)りましぬ。故(ゆ え)、紀伊国(きいのくに)の熊野(くまの)の有馬村(ありまむら)に葬(ほうむ)りまつる。土俗(くにひと)、此(こ)の神の魂(みたま)を祭(まつ) るには、花の時には亦(また)花を以(もっ)て祭(まつ)る。又(また)鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用(も)て、歌(うた)ひ舞(ま)ひて祭 (まつ)る。」
日本書紀 岩波文庫より

 このイザナミの墓が、現在の三重県熊野(くまの)市有馬(ありま)にある「花(はな)の窟(いわや)」である事は、ほぼ間違いありません。
参考 花の窟神社 http: //www.hananoiwaya.jp

 また、「花の窟」から産田(うぶた)川を少し遡(さかのぼ)ると、そこに産田神社(うぶたじんじゃ)という社(やしろ)があります。
参考 みくまのネット 産田神社 http: //www.mikumano.net/meguri/ubuta.html

 産田神社(うぶたじんじゃ)に伝わる由来(ゆらい)によると、この産田神社は、 伊弉冉尊(いざなみのみこと)が、火神(ひのかみ)、軻遇突智(かぐつち)を産(う)んだところだとされています。

 熊野の古文書(こもんじょ)には、この有馬にあった宝物(ほうもつ)を移動させて、熊野本宮(くまのほんぐう)が出来たという説話(せつわ)が載 (の)っています。
 熊野の研究誌である「熊野誌(くまのし)28号」に掲載(けいさい)された「花の窟にみる熊野信仰の源流(げんりゅう)」という前川照世氏の文章から、地元 (じもと)文書(ぶんしょ)である「熊野伝記(くまのでんき)」の一部を抜粋(ばっすい)します。
※「熊野伝記」は、「本宮社記」という名前でも知られているようです。まだ、現物は拝見する機会に恵まれていません。

「その後、有馬村(ありまむら)の神器(じんぎ)を悉(ことごと)く宮殿(きゅうでん)に運び納(おさ)めると言う。此の時、始めて神主(かんぬし)、神 部(かんべ)を定め、饗殿司(にえどのつかさ)を兄人(せうと)、舞人司(まいびとのつかさ)を父(ちち)と言い、御田作(みたつくり)を農君(のうく ん)と言う。皆これ勅命(ちょくめい)を以(もっ)て呼ぶ伝々(でんでん)」(原漢文(げんかんぶん))
「また詔(みことのり)ありて千代挟田(ちよさだの)命(みこと)は、五人の神部(かんべ)、天女(てんにょ)、三人の織女(しょくじょ)、また二人を先 に立てて天(あま)降(くだ)り坐(ま)し、有馬村(ありまむら)の神器(じんぎ)、種々の財物(ざいぶつ)を天羽車(あめのはぐるま)に移し、神部(か んべ)等(ら)あいともに迎え奉り、大斎原(おおゆのはら)に移す。時に老女、櫛(くし)を奉(たてまつ)りて申(もう)す、またな帰(かえ)り給(た ま)いそ、その所を櫛屋(くしや)と名(な)づく。また坂木(さかき)を奉(たてまつ)り祝(いわ)う、その所を神木(こうのき)と名(な)づく。すでに 坂を越えて羽車(はぐるま)居(い)る、その所を尾呂志(おろし)村(むら)、あるいは宝殿(ほうでん)と名づく。彼(か)の地(ち)に行き鹿(しか)を 射(い)し村、ここに泊(と)まる。これより先(さき)、小翁(ちおきな)弓(ゆみ)を持(も)ちて追(お)い来(きた)り、羽車(はぐるま)の前につく ばう。皆(みな)問(と)う、答えていわく、我が名(な)は万歳(ばんざい)、大河(たいが)の辺(あた)り尾翼(びよく)の丘(おか)、大柳(おおやな ぎ)ここに有り、常に病(やま)い治(おさ)むるを事(こと)とし、導(みちび)き奉(たてまつ)らんとして、先駆(さきが)けして河辺(かわなべ)に着 くと、これより丸手船(まるてぶね)に乗せ奉(たてまつ)る」(原漢文)

 「熊野伝記」は、この事件を崇神天皇の時代の事だとしますが、これは古い時代の事を、崇神天皇の時代に仮託しているのだと思います。
 
産田社
産田社
和歌山世界遺産センターの右手にあります

 文書に出て来る「千代挟田(ちよさだの)命(みこと)」は、「三体月伝説の本当の意味」 で紹介 した熊野の犬飼「熊野部(くまのべ)千代定(ちよさだ)」の事でしょう。それから、文の最後の方で「大柳」が出て来ますが・・・「熊野信仰に隠れる楊貴妃の伝説」 の最後の方で紹介した三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の棟木(むなぎ)になったという「おりゅう柳」の事だと思います。私は、熊野部千代定は、南山 の犬飼・阿羅昆可(あらびか)と同一人物だと考えていますし、「おりゅう柳」は、後白河法皇の伝説ですから、このお話は、平安時代末以降に成立したお話で しょう。
 おもしろいのが、「楊貴妃隠棲2(龍神村に潜んだ楊貴妃)」で紹介した熊野権 現秘事の巻」が田辺の地名の由来を悦瞑していたと同じように、この伝承が、三重県の紀伊半島熊野(くまの)の南端部の御浜(みはま)・紀和町(きわちょ う)に現在もある地域の名前と一致し、その由来(ゆらい)を説明してい て、そこから神器(じんぎ)の通った道筋が想像出来る事です。

 熊野本宮にある世界遺産センターの横にある路地(ろじ)から、熊野川(くまのがわ)の中州(なかす)の大斎原(おおゆのはら)まで歩くと、途中に「産田 社(うぶたやしろ)」と書かれた小さな祠(ほこら)を見る事が出来ます。この大斎原(おおゆのはら)は明治時代(めいじじだい)の大水害(だいすいがい) まで本宮大社(ほんぐうたいしゃ)のあった場所です。
 有馬村(ありまむら)の「産田神社(うぶたじんじゃ)」からは埋蔵土器(まいぞうどき)が多く出土し、「ひもろぎ」と呼ばれる古代の祭壇(さいだん)の 後があります。そこに神器(じんぎ)があった・・・と考えることが出来るでしょう。
 だからこそ、 大斎原(おおゆのはら)の入り口に、「産田社(うぶたやしろ)」が鎮座(ちんざ)しているのかもしれません。

 伊弉冉尊(いざなみのみこと)は八百万(やおよろず) の神々を産(う)んだ母であり、生産(せいさん)の神だと考えられます。

 伝承から言っても、有馬村(ありまむら)に祀られていた祭神(さいじん)は、 伊弉冉尊(いざなみのみこと)であり、生産(せいさん)の神である「産田神(うぶたがみ)」です。その神を移したのが、大斎原(おおゆのはら)だというの ですから、この大斎原に祀られた神もイザナミであり、産(むすび)神と考えてよいでしょう。

 伊弉冉尊(いざなみのみこと)の事ではないのですが、日本書紀に、開化天皇の子どもとして、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)という名前の御子がいます。同じ御子が、古事記 では、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)と書かれています。

 ここから、牟須美は、産(むすび)と同じ意味・・・すなわち、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の事なのだとわかります。

●本宮に祀られていたスサノオノミコト

 先に「皇族達の熊野参詣の始まり」の中で熊野本宮の神は、須佐之男命(すさのお のみこと)だと考えられているという説明をしました。言う事が変わっている のではないか?という意見もありそうですが・・・「古事記」でも「日本書紀」でも、 スサノオノミコトは、母、イザナミの根(ね)の国に入り、その国を支配する事になっています。
 そこから考えれば、 須佐之男命の支配している世界こそ、 伊弉冉尊(いざなみのみこと)の支配していた国だと言ってもいいのではないかと思います。

 スサノオノミコトが、古くから熊野に祀られていた事は間違いありません。
 日本書紀には、「即ち紀伊国に渡し奉(まつ)る。然(しかう)して後に、素戔鳴尊(すさのおのみこと)、熊成峯(くまなりのたけ)に居(ま)しまして、 遂に根国(ねのくに)に入りましき。」(日本書紀 岩波文庫より)とあります。

 おそらく、楊貴妃が生きていた奈良の時代には、現在の新宮が、イザナキ(速玉神(はやたまかみ))、現在の本宮、大斎原(おおゆのはら)がイザナミ(牟 須美神(ふすみかみ))とスサノオを祀(まつ)る形になっていたのでしょう。

筆者考察
 もしも、先にあげた「熊野伝記」の記述 を信じ、南山の 犬飼・阿羅昆可(あらびか)が、熊野(くまの)の有馬村(ありまむら)の神器(じんぎ)を大斎原に運んで祀り直したのだとすれば、楊貴 妃のいた時代の大斎原(おおゆのはら)には、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が祀られていましたが、まだ、牟 須美神(ふすみかみ)=イザナミは、祀られていなかった可能性があります。
 こう考えた場合には、先に「楊貴妃隠棲3(楊貴妃の熊野信仰)」の中で、称徳 (孝謙天皇重祚)天皇が封戸(ふこ)を与えた熊野牟須美神(ふすみかみ)を現在の熊野本宮の事であろうとしましたが、熊野(くまの)の有馬村(ありまむ ら)の「花の窟(はなのいわや)」もしくは、「産田神社(うぶたじんじゃ)」であったとしなければならないかもしれません。



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