●楊貴妃は白豚だった?
絶世の美女だったという楊貴妃がどんな女性であったか?とても気になるところです。
楊貴妃の事を書いた本や、サイトを見ていると、楊貴妃が白豚だった・・・は、言い過ぎだとしても、太ったグラマラスな女であったという意見が、席巻し
ています。しかし、また、同時に、楊貴妃の姿形から、柳腰という言葉が生まれたともあります。
私は、切り絵師ですから、楊貴妃の事を調べ始めた時、なによりも、まず、楊貴妃の容姿から想像しました。
しかし、楊貴妃のイメージを想い浮かべるのに、とても苦しみました。豊満な女性で・・・しかも、柳
腰・・・そんな体付きがあるでしょうか?いったい、どんな女性だというのでしょう・・・。
楊貴妃が太った女性だったという根拠は、いくつかあります。
こういう話があります。玄宗はあるとき、漢の成帝の愛妃・飛燕の話をしていて、「成帝は、飛燕の身体が、あんまりきゃしゃで風に飛ばされるのを心配し
て、
七宝
の風よけをつくり、その中で舞わせたのだ。」と言ったあと、「お前は、大丈夫だ。少し風に吹かれるがいい。」と楊貴妃が太っているのをからかったとしてい
ます。
また、玄宗の寵妃には、楊貴妃と寵愛を競った梅妃という女性がいて、楊貴妃とは反対のほっそりとした女性であったと伝えられています。
あるいは、この時代の女性像を見ると、太った女性が描かれていて、当時の美女の基準は、太った女性であった・・・というのです。(たとえば、正倉
院に残された「鳥
毛立女屏風図」などが代表とされる)
しかし、楊貴妃の事を調べるうちに、私は、「楊貴妃は、白豚ではない!」 と確信するようになりました。
楊貴妃が、太っていた・・・という記録は、いくつかあるようですが・・・全てかなり後代に書かれたものです。「風に吹かれるがいい」とからかったと話が
あるの
は、楊太真外伝ですが、これ
は
900年代の終わり頃、宋代になって書かれた小説です。
梅妃については、作者不詳の「梅妃伝」という書物に、その名前が残されているだけで、正史とされる旧唐書にも、新唐書にも、資治通鑑にも、その名があり
ません。ですから、梅妃は、その実在を疑われています。
牛僧孺(779年―848年)は、「周秦行記」という小説の中で、楊貴妃の容貌を、「纖腰修眸,儀容甚麗」(腰は細く眸はすらりと細長く、容貌は整って甚だ麗しい)としています。牛僧孺は、楊貴妃が亡くなったとされてから、比較的時代のたっていない時期の人物ですので、楊貴妃の姿を伝え聞いていた可能性が高く・・・私は、この方が信じられるのではないかと思います。
この時代は、太った女が好まれていた・・・というのは、説得力がありそうです。しかし・・・この時代には、・・・興福寺の阿
修羅王像や、薬
師寺の日光・
月光菩薩なども作られています。
もちろん、仏像は、女性像とはいえないものですが、当時の人々が究極の美を表現しようとしたものである事は、まちがいありません。そして、これらの仏像
が、女性的な美しさを持っている事もまちがいないでしょう。
私には、薬師寺の日光・月光菩薩の腰付きこそ「柳腰」そのものに思えます。
当時は、唐は、女禍の時代と言われ、日本は孝謙天皇など・・・権力をもった女帝が支配する時
代が続きました。「鳥毛立女屏風図」などは、男性眼線からの美女を描いたものではなく・・・言わば、今でい
うプリクラのようなものであって・・・裕福な女性が・・・自分たちをモデルにして、着飾った自分たちを絵師に描かせたも
の
ではないでしょうか?
●李白の讃えた楊貴妃
楊貴妃の本当の容貌を知るには、後代の話ではなく・・・楊貴妃の同時代に、楊貴妃に実際にあった人物が、どのように楊貴妃を評価していたか?という事が
最も重要で信頼のおける資料のはずです。
詩仙と呼ばれた李白は、宮中に呼ばれ、楊貴妃の目前で、酒に酔ったまま、即興で三首の詩を造りました。
雲想衣裳花想容 |
雲には衣裳を想い、花には容(かんばせ)を想う |
春風払檻露華濃 |
春風、檻(かん)を払いて露華(ろか)濃(こま)やかなり |
若非群玉山頭見 |
若(も)し 群玉山頭(ぐんぎょくさんとう)に見るに非(あら)ずんば |
会向瑤台月下逢
|
会(かなら)ず 瑶台月下(ようだいげっか)に向かって逢わん |
意味
雲を見ては君(貴妃)の衣裳を想い、牡丹を見ては君の容顔を想う。春風は欄干のあたりを払い、露の光は光って、しっとりと花上に置かれた。
これほど美しいひとは、もし郡玉山上で会うのでなかったら、きっと瑶台の月の下でしか会えないだろう。(郡玉山上は、仙女西王母の住む山、瑶台も同じく仙女がいるとされている高楼) |
一枝濃艶露凝香
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一枝濃艶(いっしのうえん)露 香を凝(こ)らす |
雲雨巫山枉断腸
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雲雨 巫山(ふざん) 枉(むな)しく断腸 |
借問漢宮誰得似
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借問(しゃもん)す 漢宮(かんきゅう)誰に似たるかを得ん |
可憐飛燕倚新粧
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可憐の飛燕 新粧に倚(よ)る |
意味
まるで、一枝の濃艶な花に、霞が香を凝結させたようだ。この美しいひとを見れば、昔、巫山の雲雨を眺めてそこに棲む神女に恋
いこがれたという楚(そ)の襄王(じょうおう)は、きっと、あまりのむなしさに断腸の想いをするであろう。聞いてみたい・・・漢の宮殿の美人の中
で、誰がこの方に似ていたというのだろう。それは、例えるなら、あの可憐な愛姫趙(ちょう)飛燕が、化粧したばかりの美しさとでもいったらよいだろ
うか |
名花傾国両相歓
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名花傾国(けいこく)両(ふた)つながら相歓ぶ |
常得君王帯笑看
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常に君王(くんおう)の笑を帯びて看ることを得たり |
解釈春風無限恨
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解釈す 春風 限りなきの恨(うらみ) |
沈香亭北倚蘭干 |
沈香亭北(じんこうていほく) 蘭干(らんかん)に倚(よ)る |
意味
牡丹の名花と絶世の美人と、両方から御心をむかえて、君王は笑みを含んで飽かず眺める。この美しい花と美しいひととが
春風の誘うかぎりない春愁を解きほぐして、今、沈香亭の北、らんかんにもたれている |
この詩を読んで、「楊貴妃白豚説」を唱える人は、李白が楊貴妃を牡丹の花に例えたのは、楊貴妃が相撲取りのような「あんこ型」の体形だったから
だ・・・と言います。
しかし・・・この詩を読み、牡丹の花を見て、相撲取りのように太った女性を想うでしょうか?
わたしなら、まちがいなく、とても美しい女性を連想します。
李白は、とてつもなく美しい女性の事を詠っている・・・私は、そう思います。
第二首で、李白は、楊貴妃を、冒頭で挙げた・・・風が吹けば飛びそうだったほどきゃしゃだったと伝えられる飛燕に例えています・・・・だとすれば、李白
は、楊貴妃が太った女性ではなく、飛燕のようにきゃしゃな女性であると詠んだ事になります。
これを、李白の楊貴妃や玄宗に対するおべんちゃらであったという人もいます。たしかにそうかもしれません。
しかし、李白の友達だった杜甫はどうでしょう?
杜甫が、唐の政権が崩壊した安史の乱の最中に哀江頭という詩の中で楊貴妃の美しさを詠っている事は、「詩
聖・
杜甫が記録した楊貴妃」の中で紹介しました。
この時、政権は崩壊しているのですから、杜甫には、玄宗皇帝や楊貴妃に対しておべんちゃらを言う意図はなかったはずです。杜甫は、純粋に楊貴妃に憧れ、
心から心配していました・・・。
杜甫は身分が低かったので、楊貴妃を見た事があるかどうかは疑わしいのですが・・・もし、見ていたとしたら、そのまま、その美しさを、この詩に書いた事
にな
りますし・・・もし、見ていないとすれば、これは、李白から、楊貴妃の美しさを聞いて書いたという事になります・・・・親友だった李白は杜甫に本心を語っ
たに違いありませんから、李白も、やっぱり心の赴くままに、純粋に楊貴妃の美しさを讃え、詩を詠んだのだという事になりませんか?
●愛される存在だった楊貴妃
「三千の寵愛、一身にあり」・・・本当の美女でなければ、三千人の美女がひしめく中で、寵愛を独占した・・・などという事態が起こりえるでしょうか?
「楊貴妃白豚説」を唱える人は、玄宗がデブ専だったんだ・・・などと言いますが、「楊貴妃が太っていた」とする「梅妃伝」こそ、玄宗が細い体付きの女性
を好んでいた事を伝えています。
そして、楊貴妃を愛したのは、ただ、玄宗だけではありませんでした。
安禄山も高力士も、阿倍仲麻呂も吉備真備も、皇帝のためではなく、地位や名声、お金のため
でもなく、自分の立場が悪くなり危険にさらされるのも顧みず・・・ただひたすら楊貴妃のために・・・あるいは、主君を裏切り、あるいは、命がけで楊貴妃を
護りました。
これらの人々が、全員、デブ専だった・・・とは私には考えられません。
●楊貴妃はしなやかで優美な躰の美女だった!
トップページの絵は、イメージを膨らませるために、楊貴妃がグラマラスな女性であったという伝承を受けて描いたものですが、今なら、もっと細身の女性を
描くでしょう。
楊貴妃の事を調べる中で、私は、当時の人々の楊貴妃に抱いたイメージに出会いました。それは、柳であり、キツネであり、ユリの花でもありました。
ここから受ける女性のイメージは、共通しています。これは、しなやかな体躯の・・・「白豚」とは正反対のイメージです。
白居易の「長恨歌」を読んでも、そこから受ける女性のイメージは、柔らかな曲線の・・・たよりなげな・・・楚々とした体躯の持主です。李白も、杜甫も・・・しなやかで美しい肉体をもつ女性の事を詠っているように思えます。
楊貴妃は、細身の女性であった・・・・と考えた方が、自然ではないでしょうか?
では、なぜ、「楊貴妃白豚伝説」が生まれたのでしょう・・・・?
皇帝から死刑判決を受けた楊貴妃が生き残り、日本に渡ったとする事は、日本の朝廷にとって、そして、中国の朝廷にとっても、不都合であったでしょ
う・・・。
しかし・・・キツネと呼ばれた美女が、日本に渡ったとする話は、噂として広まっていました。これを楊貴妃と結びつけて考えられる事は、避けなければなり
ま
せん・・・・。
「楊貴妃は、キツネの美女ではない」・・・・とする必要がありました。
だからこそ、楊貴妃を、キツネ型の細身の女性ではなく・・・タヌキ型・・・あるいは、太った雌ブタとして伝承する必要性があったのです。
本当の楊貴妃は、しなやかで優美な躰つきをした女性であった・・・・私は、そう確信しています。
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