龍神楊貴妃伝

熊野信仰に隠れる楊貴妃の伝説

 楊貴妃渡来伝説は、日本各地にあります。
 特に、熱田神宮(あつたじんぐう)に伝わるものと山口県の油谷(ゆや)町に伝わるものが有名です。熱田神宮に伝わる伝説は、熱田神宮が蓬莱だ という伝説から来ているものと考えられます。そして、山口油谷の起源は、熊野の古語読みである「ユヤ」から来て いるのではないかと思われます。

 かつて楊貴妃は、熊野と密接な関係を持って、考えられていたのではないでしょうか?

●湯の峯温泉は、楊貴妃の湯?

 鎌倉時代の初期、湯の峯(ゆのみね)温泉を訪れた藤原頼資(ふじはらのよりすけ)は、この湯を「不異驪山 温泉(りざんのおんせんにことならず)」と讃(たた)えています。(「頼資卿記(よりすけきょうき)」 承元(じょうげん)4年(1210)10 月8日条)
 「驪山(りざん)温泉(おんせん)」とは、楊貴妃が玄宗皇帝から賜ったという華清池(かせいち)を指します。

 現在、この文章は、「楊貴妃の使った驪山(りざん)の華清池(かせいち)とはこのような温泉であったに違いない」と訳されています。
 しかし、あるいは、頼資(よりすけ)は、「この温泉こそ楊貴妃が浸かった驪山(りざん)の華清池(かせいち)に違いない」と言ったのではないでしょう か?原文を文字通り解釈すると、そう読めます。

 今、熊野が楊貴妃と結びつけられて語られる事はありませんが、熊野の楊貴妃伝説は、それが、表沙汰(おもてざた)に出来ない真実であったがために、意図 的に消されたのではないでしょうか?

●熊野の神となった女神伝説

 熊野には、異国の神が祀られた形跡があります。
 それをうかがわせる代表的なお話の一つが、「五衰殿(ごすいでん)の女御」です。
 これは、熊野の神の由来を語る物語なのですが、五衰殿の女御という天竺にあるマガタ王国の美しいお姫様が、熊野の神になったとしています。
 お姫様は、首を切られて死ぬのですが・・・和歌山県立博物館所蔵の「熊野権現縁起絵巻」など多くの書物で は、五衰殿の女御が、観音(かんのん)の利益によって復活し、熊野の神となる筋立てになっています。あらすじを付録 熊野権現縁起(五衰殿)で紹介します。(中辺路の熊野古道館に展示されています。写真は、五 衰殿の女御が生んだ王子が動物達に 育てられる場面です。)
 リンクであげた神道集・熊野権現の事などには、お姫様の復活のシーンは書かれていません。しかし、これらのお話でも、このお姫様が、熊野の神(那智の神 =夫須美神=結神)になったと書かれていて、そこに、お姫様の復活を見ていただろうと、私は思います。


熊野権現縁起絵巻

 このお話は、楊貴妃のお話に似ています。玄宗皇帝は、「3000の寵愛、一身にあり」と詠われるように、楊貴妃と出会う事によって、他の后を振り向かな くなってしまったと伝えられていますが、この五衰殿の女御に出て来るマガタ国の善財王も、1000人の后がいたにもかかわらず、五衰殿の女御一人に夢中に なり、そして、他の后からの恨みを買い、国が乱れ、王様は、五衰殿の女御の死を許さざる終えない立場に追い込まれてしまうのです。
 もしも、楊貴妃が復活し、熊野に渡り、そこに祀られているとしたら、これは、五衰殿の女御のお話にとても、よく似ているのではないでしょうか?
参考 関係する物語として、能に「楊貴妃」という演目があり、五衰した天女が、 地上に降り、楊貴妃となるお話があります。
謡曲 楊貴妃

●後白河法皇が愛した柳の女神

 楊貴妃を連想させる熊野のお話は、他にもあります。
 例えば、三十三間堂の棟木になったという熊野の楊子川の畔にあった巨大な柳のお話です。
 ここには、「お柳(りゅう)」という柳の化身の女神が登場しますが・・・このお話は、その生涯で、34回も、熊野参詣を行なったと伝えられる後白河法皇 の「柳の女神」への信仰を表していると考えられます。
 楊貴妃が、「柳眉」「柳腰」というように、その美しさを「柳」で例えられるところは、よく知られるところです。そして、楊貴妃の楊は、柳の別字でもあり ます。
 「吉備大臣入唐絵巻」を作らせたのも、後白河法皇だと考えられています。
 この楊枝薬師の「柳の女神」の伝説は、後白河法皇の熊野信仰が・・・本当は、楊貴妃信仰であったことを、示しているのではないでしょうか?
*後白河法皇は、江談抄の筆記者であった藤原実兼の息子である藤原信西に長恨歌の絵巻を作らせ受領しています。この事は、「平治物語」や九条兼実(1149 〜 1207)の日記『玉葉』に書かれています。後白河法皇が、楊貴妃の絵を所持していた事は、間違いありません。

参考
熊野(ユヤ)
能に熊野(ユヤ)という演目があります。ウィキペディア 熊野(能)http://ja.wikipedia.org/wiki/ 熊野_(能)

不異驪山温泉
ウィキペディア 熊野本宮大社例大祭 http: //ja.wikipedia.org/wiki/熊野本宮大社例大祭

五衰殿の女御
み熊野ネット 熊野の本地 五衰殿の女御 http://www.mikumano.net/setsuwa/honnji2.html
中世における神仏関係(2);神道集その1 http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/2007shumin9.htm

楊子薬師縁起
み熊野ネット 楊枝薬師堂 http://www.mikumano.net/meguri/yoji.html
蓮華王院 三十三間堂 年間行事 楊枝(やなぎ)のお加持 http://sanjusangendo.jp/h_2.html#ivent1

「平治物語」より
「信西あまりの勿体なさに、唐の安禄山がおごれる昔を絵にかきて、巻物三巻を作りて、院へまいらせけれども、君はなをげにもと思食たる御事もなく、天気他にことなり。」
平治物語 http://www.j-texts.com/chusei/gun/heiji.html

『玉葉』の建久二年(1191)十一月五日条より
「そもそも長恨歌繪に相ひ具して、一紙の反古有り、披きて之を見る處、通憲法師の自筆なり、文章褒むべく、義理悉く顯はる、感歎の餘り、留めんと之を寫す、其の状に云ふ、
  唐の玄宗皇帝は近世の賢主なり、然れども其の始め愼みて、其の終り弃つ、泰岳の封禪に有るといえども、蜀都の蒙塵を免ぜず、今數家の唐書、及び唐暦、唐紀、楊妃内傳を引きて、其行事を勘み、畫圖に彰はす、伏して望む、後代の聖帝明王、此圖を披きて、政アの得失を愼み、又厭離穢土之志有らば、必ず此繪に見るべし、福貴常ならず、榮樂夢の如し、之をもって知るべきか、此の圖をもって、永く寳蓮華院に施入す、時に平治元年十一月十五日、彌陀利生の日なり」注 通憲法師=藤原信西
玉葉 建久二年(1191)十一月五日条http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1920220&contentNo=374&outputScale=1

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