龍神楊貴妃伝

野馬臺詩の書かれた理由(野馬臺詩は楊貴妃が書いた!)

 なぜ、こんな風に、単純にまっすぐ読んで、解釈の出来るものが、約1300年も の長きにわたって謎とされ、今も、誰も解読の出来ないとされるまま、「宝誌の予言書」として伝わっているのでしょうか?

●預言書伝説は本当の内容を隠すためのトリックだ!

 野馬臺詩は、そのままでは、読む事が出来ないとされ、同時に、解読のヒントとして、読む順番が語り伝えられてきました。野馬臺詩の事を伝え聞いた人間 は、ほとんど聞くと同時に、この読み方を教えられます。誰も、これに疑いを持たなかったのではないでしょうか?人間は知識を与えられると、自分の頭で考え たり、判断したりしなくなるのです。
 この野馬臺詩を創った人間は、野馬臺詩を伝えるにあたって、「このままでは、けっして読む事が出来ない」「読み方に順番がある」「宝誌による日本の未来 の予言書だ」という知識を与えました。そして、そのことによって、既成概念を生じさせ、普通の順番に読んでみる試みをさせないようにしむけ、野馬臺詩 の伝える本当の内容を隠したのです。

 我々は、ずっと、この作者の仕掛けたトリックにかかっていたのでは、ないでしょうか?

●野馬臺詩を書いたのは誰か?

 この野馬臺詩を書いたのは誰でしょうか?
 文中にいくつかヒントがありそうです。

 まず、この文章が、玄宗が長安を逃げ出したところまでで終わっていて・・・その後に起った安禄山の死や、玄宗が、長安に戻った・・・などという事は書か れていない・・・・ということです。
 そうすると、この文章が、その時点で書かれたか・・・・あるいは、そこまでしか知らない人物によって書かれたかの、どちらかだという事になります。

 それから、次に、この文が「東海姫司」に宛てられて書かれた文であるらしい事・・・・

 東海姫は、宝誌の予言書としては、卑弥呼(ひみこ)とか、天照大神、神功皇后(じんぐうこうごう)、あるいは、中国で春秋戦国時代に消滅していった姫氏の事だと解釈されています。

 しかし・・・・私が正しければ、これは、唐の国の動乱を、いちはやく、日本に伝えようとしたものと解釈されますから、相手先が、そんな昔の人物であるわ けがありません。
ですから、「東海姫司」とは、この時代の女帝「孝謙天皇(こうけんてんのう)」ととらえて間違いないでしょう。

 この文を書いた動機として疑わしいのは、唐の国の動乱を、いちはやく、日本に伝えたいと思っていたはずの、「阿倍仲麻呂」でしょうが・・・阿倍仲麻呂 が、孝謙天皇を 「東海姫司」などと書くわけがなく、この文章の作者ではありえません。

 だいたい「司(つかさ)」といえば、「国司(こくし)」「郡司(ぐんし)」というように、律令制度(りつりょうせいど)の中の地方長官のような意味合い です。
 ですから、「東海姫司」といえば、東海をつかさどる地方長官ぐらいの意味で・・・・文章が、謙譲した書き方であるにも関わらず・・・・作者は、唐側の立 場にある人間で、孝謙天皇を唐帝国の部下であると考えている事になります。

 孝謙天皇を自分の部下であると考えているならば、作者は、皇帝である玄宗・・・・という考えが出て来ますが、これも違いそうです。なぜなら、文の最初 で、「本宗」と玄宗を指して書かれています。おそらく、自分の事を書くなら、朕(ちん)でしょう。ですから、玄宗でもありえない。

 残る候補は、やはり、「楊貴妃」です。他の候補を、私は、思いつきません。

 私が、楊貴妃が日本に来ていると言った意味を、ご理解いただけるでしょうか?

●なぜ、野馬臺詩は、内容を隠す必要があったのか?

 野馬臺詩は、偽書だ!などという意見もあるかもしれませんが、それは、ありえません。
なぜなら、偽書とは、何かの意図を裏付けるために作られるものです。

 野馬臺詩は、楊貴妃伝説を裏付けるために作られたものではありません。 野馬臺詩に、楊貴妃に関する伝説は一つもなく、今の所、野馬臺詩と楊貴妃が関係があると言っているのは、私だけです。
 ですから、偽書である理由がないのです。

 野馬臺詩は、始めから、本来の目的を隠し、宝誌の予言書として流布されました。これは、先に書いた様に平安時代に書かれた日本書記の解説書「日本紀私記 丁本」に 宝誌の予言書として書かれ、「延暦寺護国縁起」の790年の注伝でも、暗号文の解釈による読み方が記録されていますから、間違いないでしょう。

 では、なぜ、そのように目的を隠す必要があったのでしょうか?
 それは、楊貴妃と、その庇護者となった吉備真備の立場にあったでしょう。

 吉備真備は、楊貴妃が亡命してきたとき、大宰の大弐(だいに)でした。これは大宰府の常駐長官のようなものです。
 だからこそ、吉備真備は、上陸した楊貴妃を一早く庇護出来たわけですし、楊貴妃もそれを当て込んで、逃げて来たのでしょうが・・・・大宰の大弐は、政権 の中では、左遷といってよい官職でした。

 吉備真備の朝廷の中での立場は、このとき非常に不安定なものでした。それが、国際指名手配犯と言っていい楊貴妃を庇護したというのは、言わば・・・・さ らに爆弾を抱えたようなものです。

 だから、楊貴妃の事は、絶対の秘密でした・・・しかし、それでも、吉備真備は、それを天皇や一部の味方には、知らせる必要がありました・・・・なぜな ら、唐が崩壊した今、安禄山は、次に日本を襲う可能性もありましたし、新羅(しらぎ)や渤海(ぼっかい)が、混乱に乗じて、日本に兵を送り込んでくる可能 性もありました。それは、日本の危機でした。なんとしても、日本の防衛を急ぐ必要がある!

 もちろん、楊貴妃にとっても、日本に亡命している事を、他の人間に知られるわけにはいかなかったでしょう。
 それでも、おそらく、楊貴妃は、阿倍仲麻呂や吉備真備のためにも、唐の動乱を孝謙天皇に知らせたいと願ったのではないでしょうか?

 だからこそ、楊貴妃は、野馬臺詩を書いたのでしょう。
 楊貴妃は、才智が尋常でなく、巧みに言葉を使いこなしました。玄宗に愛されたのは、容姿だけではなく、頭の回転が早い女性だったからだと言われていま す。(「旧唐書 后妃伝」善歌舞,通音律,智算過人。「新唐書 后妃伝」善歌舞,邃曉音律,且智算警穎,迎意輒悟。)
 楊貴妃は、漢文に・・・教わった和文を混ぜ、さらに、巧妙に、女性らしい言葉遊びをその中に忍ばせました。宝誌の予言書だなどという逸話も楊貴妃によっ て作られたのでしょう。

 そこに、 野馬臺詩の名前をつけたのは、 おそらく 吉備真備だったでしょう。
 野馬臺詩(やまたいし)と聞き、東海姫と聞けば、我々現代人は、邪馬台国の卑弥呼を連想します。しかし、当時の日本人は、邪馬台国も卑弥呼も聞いた事が なかったに違いありません。平安時代に書かれた「日本紀私記丁本」でさえ、「東海姫氏の国」とは、皇室が天照大神から始まり、女帝の神功皇后がいるからだ という回答になっています。
 真備は、唐の国で勉学に励み、歴史に強い関心を示しました。「史記」「漢書」「後漢書」を学んだといいます。おそらく、卑弥呼の話の載る「魏志倭人伝 (ぎしわじんでん)」にも眼を通していたでしょう。

 平安末期に書かれた大江匡房(おおえのまさふさ)の江談抄(ごうだんしょう)、「吉備入唐の間の事」の中には、吉備真備が、唐の皇帝の前で、内心震えな がら、朗々と野馬臺詩を読み上げるシーンが出て来ます。
 それは、実際、宮中で、野馬臺詩を読みあげた吉備真備の姿そのものだったでしょう。
吉備真備は、これを、「宝誌の予言書である」と宣伝しました。

 楊貴妃亡命のことは、真備の政敵であり、このとき事実上の最高権力者であった大納言藤原仲麻呂や、上司である大宰帥(だざいのそつ)船王(ふねのおう) らには、絶対に知られてはなりませんでした。
 同時に、一部の仲間・・・・おそらく、大学寮での教え子である孝謙天皇、吉備真備の後見者であった橘諸兄(たちばなのもろえ)の息子である参議(さん ぎ)の橘奈良麻呂、遣唐使として共に唐に渡り、楊貴妃とも対面したことのある左大弁大伴古麻呂(おおとものこまろ)などには、きっと、こっそりと、その真 意を伝えた事でしょう。

 そして、吉備真備は、その危険な綱わたりを見事に演じ切ったのでした。
 しかし、やがて、その事は、大きな事件の火種となり、吉備真備と楊貴妃は、この藤原氏との政権闘争の渦中に巻き込まれて行く事になります。

 ・・・・けれど、その事を語るのは、まだ、先の話です。この事を語るには、まだ、もっと、たくさんの立証を行った上でなければなりません。

 ・・・・・これから後の話は、また、章を改めて述べる事にしましょう。


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