中国で楊貴妃が、熊野に行ったという話を聞いたのは、東北での大震災があった
2011年の5月の事でした。
私は、その時、三重県の熊野市に住んでいました。すでに、もう何年も、熊野の伝説を調べ、それを切り絵にしていました。
しかし、私は、楊貴妃が、日本・・・特に、熊野に来たなどというお話は聞いた事がありませんでした。ですから、お話を聞いた時には、頭から馬鹿にしていたのです。
けれど、聞いているうちに、長恨歌を思い出しました。長恨歌には、楊貴妃が蓬莱に棲んでいる事が書かれています。そして、熊野は、古くから蓬莱と呼ばれています。
だとしたら、熊野に楊貴妃渡来伝説があってもおかしくない・・・・もし、熊野に楊貴妃が来ていたとしたら、それはどこなのだろう?どこかにお話が残っているだろうか?中国から帰ってきてからも、その事
が、ずっと、頭の片隅にひっかかっていたのです。
●龍神温泉絵図の発見
7月、私は、和歌山の山岳地帯にある龍神村に移り住みました。
「幕末の頃の龍神温泉の図」
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さらに、半年ほどたった頃、私は、村民センターで幕末(ばく
まつ)の頃の龍神温泉を描いた古い絵図をみかけました。
龍神温泉は、僻地(へきち)である紀伊(きい)の国の中でも、特別深い人里離れた山中にあります。現代でも、田辺(たなべ)や御坊(ごぼう)など、一番
近い町から、車で1時間以上もかかる秘境(ひきょう)です。
そんな龍神温泉ですが、かつては、徳川御三家である紀州藩の湯治場(とうじば)であり、日本三美人の湯として知られ、栄えていたと伝えられています。
その絵図に描かれた龍神温泉は、その隆盛期(りゅうせいき)の様子を想像させるもので、山中に開けた桃源郷(とうげんきょう)のように見えました。私
は、絵図にすっかり魅了されて、村民センターで、この絵図の持ち主の方を教えていただき、写しをいただいたのです。
私は、その絵図を片手に、龍神温泉を歩いてみました。
この年は、東北での大震災に加え、この紀伊の国を襲った大水害がありました。私は、あいた時間は、復興ボランティアに費やして
いました。また、立て続きに展覧会が入っていた事もあって、龍神村に来てから、もう半年にもなるというのに、その時まで、きちんと龍神温泉を歩いた事がな
かったのです。
もう秋も終わり、紅葉を楽しむ観光客の姿もありません。
中途半端に近代化された温泉街には、残念ながら、絵図に描かれた仙境(せんきょう)のような趣(おもむき)はありませんでした。ただ、旅館街を支える石
積みと、今は使われなくなった元湯の浴場跡のみが、かろうじて往古(おうこ)の有様(ありさま)を語っていました。
●温泉絵図に描かれた「ヤウキヒ桜」
私が龍神温泉を歩いた目的には、絵図と現在の龍神温泉を比べるという以外の、もう一つ理由がありました。
「龍神温泉図に描かれたヤウキヒ桜」
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「温泉寺に立つヤウキヒ桜」
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私は、絵図面の中に「ヤウキヒ桜」と説明が書かれた桜の樹をみつけていました。
私は、そこから、中国の伝説に伝わる楊貴妃の隠れ住んでいた熊野とは、龍神温泉の事で、龍神村に、楊貴妃の伝説があったものが、いつのまにか忘れ去られ
てしまったのではないかと思い始めていたのです。
温泉寺の石段を上ると、絵図面に描かれた場所に、何の説明もなくひっそりと半分朽ちかけた桜の樹がたたずんでいました。
このとき、私の中に浮かんだ考えは、熊野の他の地域に、楊貴妃伝説がないのであれば、このボロボロの桜の樹を利用し、龍神村に、新たな楊貴妃伝説を作っ
てしまってもよいのではないか?という事でした。そして、この伝説を軸として、龍神温泉を、絵図面に描かれた往古の風情(ふぜい)に戻して行く事が出来な
いだろうか?・・・こう考えたのです。
しかし、ただ、古い絵図面に楊貴妃の名にちなんだ桜が描かれているからというだけでは、龍神村に楊貴妃が来たというお話に、誰も興味をしめしてはしてい
ただけません。
そこで、私は、この伝説の肉付けをし、リアリティを増すために、龍神村にまつわる他のさまざまな伝承から、楊貴妃に関係しそうな物事を調べ、膨らませて
いきました。
はじめは、ただそれらしい・・・架空の物語を描ければよいと考えていました。
しかし、そうこうしているうちに、集まってきた資料が、私が想像すらもしていなかった楊貴妃渡来の物語を口々に語り始めたのです。結果として、私には、
これは、本当に、楊貴妃が日本に渡来し、その事が龍神村だけではなく、熊野三山や、高野山の起源と成立の秘密に深く関わっているのだとしか思えなくなって
しまったのです。
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