龍神楊貴妃伝

史歴の中の吉備真備と阿倍仲麻呂

 今まで、安倍晴明の前世譚と大江匡房の「江談抄・吉備入唐の間の事」から、吉備真備と阿倍仲麻呂の物語を見て来ました。正史の中では、どのように記されているのでしょうか?

●吉備真備の最初の訪唐

 阿倍仲麻呂は、養老元年(717)、唐への留学生として、第9次遣唐使船に乗って、入唐しています。
 実は、物語とは違い、この時、吉備真備も、阿倍仲麻呂と共に、唐にやってきています。
 阿倍仲麻呂は20歳、吉備真備は、23歳・・・・二人は、青春の日々を、唐の都で過ごし、親友として、ライバルとして、お互いに競い合います。

 阿倍仲麻呂は名を中国風に、「仲満(後に朝衝(ちょうしょう) 又は 晁衝)」、吉備真備は、そのときの日本名が「下道真吉備(しもみちのまきび)」でしたが、やはり中国風に2文字の「真備」と名乗ります。

 阿倍仲麻呂は、唐の社交界に華々しくデビューし、科挙(かきょ)の進士科に合格。李白(りはく)、王維(おうい)、儲光義(ちょこうぎ)など、当代の一流の詩人達とも、詩をとり交わすまでになりました。
 一方の吉備真備は、始め四門学の助教 趙玄黙(ちょうげんもく)の教えを受け、さらに、儒教、歴史、暦、算術と、黙々と勉学を続け、唐のあらゆる最新知識を吸収していきました。

 2人の運命が、決定的に変わるのが、天平7年(734)、第10次遣唐使船が日本からやってきて、留学生達が、帰る事になった時でした。
 吉備真備は、今までの成果を抱え、帰国の途につきますが、そのころ、唐の官僚になっていた阿倍仲麻呂の帰国を玄宗皇帝は認めなかったのです。
 吉備真備は、このとき、すでに40歳になっていました。実に、17年の歳月を唐で過ごしたのです。

 この吉備真備の第1回目の渡唐の時、吉備真備と楊貴妃が会っていた可能性は、低いでしょう。
 しかし、まったく、可能性がなかったわけではありません。

 楊玉環・・・後の楊貴妃は、719年に生まれています。すなわち、阿倍仲麻呂と吉備真備が、唐の国にやってきて2年目の事です。
 そして、吉備真備が唐の国を去って1年後の735年に、最初の夫である寿王李瑁(りぼう)と結婚しています。

 帰国の時、皇太子候補ナンバー1だった李瑁のお后候補として、紹介された事があったかもしれません。あるいは、仲麻呂が、進士科に合格し開かれた祝賀行 事「曲江の宴」は、一種の婿選びとして、高貴の人々が若い娘をつれてやってくるために、馬車が大混乱したと伝えられていますが・・・・ひょっとして、この 中に、まだ小さな少女だった 楊玉環 が混じっていたかもしれません。

●帰国した吉備真備の活躍と挫折

 その時代、朝廷は、藤原四兄弟による藤原氏の独裁政治が行われていました。

 帰って来た吉備真備は、留学での功を認められ、大学寮の大学助(だいがくのすけ)に任ぜられます。
 このとき、大学寮には、後に、孝謙天皇(こうけんてんのう)となる阿部内親王(あべないしんのう)がいて、「礼記」と「漢書」の講義を行ったということです。

 この頃、都に疫病(天然痘(てんねんとう))がはやり始めます。

 その嵐は、やがて、朝廷内にまで押し寄せ、独裁を誇っていた藤原四兄弟が全て亡くなるという事態にまで広がりました。

 天然痘の猛威が過ぎ去った後、死亡した藤原四兄弟に変わって、橘 諸兄(たちばなのもろえ)が、政権の中枢に座りました。
 橘 諸兄は、吉備真備と真備の留学生仲間の玄ム(げんぼう)のもたらした新知識に注目し、これを政権に生かして行く方針を固めて行きます。
 吉備真備にとって、この時こそ、得意の絶頂であったことでしょう。

 しかし、思わぬ事が、吉備真備の足を引っ張ります。
 吉備真備は、玄ムと共に、聖武天皇(しょうむてんのう)の母親である宮子皇太夫人(みやここうたいふじん)の気鬱(きうつ)の病の治療にあたり、著しい成果をあげていたのですが、その宮子皇太夫人と玄ムが、出来てしまった・・・・という噂が流れたのです。

 吉備真備と玄ムを糾弾(きゅうだん)したのは、吉備真備の陰陽学の教え子であったとも言われる藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)でした。
 藤原広嗣は、この時、大宰の小弐(しょうに)に任官されていました。広嗣は筑紫(つくし)の地で、兵をあげましたが、まもなく鎮圧されてしまいます。

 藤原広嗣に代わって、吉備真備と玄ムを弾劾(だんがい)したのが、天然痘で亡くなった藤原四兄弟のトップ藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の次男で、そのころ、めきめきと台頭してきていた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)でした。

 玄ム(げんぼう)は、筑紫観世音寺の造営という名目で左遷され、封戸(ふこ)と財物は全て没収されました。その後、 玄ムは、何者かによって暗殺されてしまいます。
 吉備真備も、また、筑前守(ちくぜんのかみ)として左遷され、さらに、肥前守(びぜんのかみ)へと移されました。そのままいけば、地方長官として朽ちる運命だったでしょう。

 その日々に転機が訪れました、吉備真備は、遣唐副使として、任命され、再び、唐に渡ることになったのです。
 すでに、大使には、藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使には、大伴古麻呂(おおとものこまろ)が決まっていました。吉備真備は、そこに追加任命されました。
 真備は、従四位上・・・ 従四位下の大使・清河より位が上でした。そのため、清河には、2階級特進の正四位下・・・大伴古麻呂は、4階級特進させ、真備と同じ 従四位上にして、編成を組むという異例の人事でした。

 あるいは、この吉備真備の遣唐副使拝命は、藤原仲麻呂による吉備真備に対する体のいい厄介(やっかい)払いだったのではないか?とも言われています。

 天平勝宝4年(752)、吉備真備は、再び、長安の都に入京し、親友・阿倍仲麻呂と再会します。
 阿倍仲麻呂は55歳・・・吉備真備は58歳になっていました。

●吉備真備の2度目の訪唐と阿倍仲麻呂との再会

 阿倍仲麻呂は、長安で出世を重ね、秘書監(ひしょげん)(従三品・帝室図書館長)衛尉卿(えじょうけい)(従三品・武器管理・宮殿守護の長官)にまで上がっていました。そして、この吉備真備達の唐来訪に当たって阿倍仲麻呂は、日本使節接待の役を与えられました。
 阿倍仲麻呂は、大使・藤原清河を特進(正二品・文散官)、副使・大伴古麻呂を銀青光祿大夫(ぎんせいこうろくたいふ)(従三品・文散官)・光祿卿(こう ろくけい)(職事官)、そして、吉備真備に銀青光祿大夫(ぎんせいこうろくたいふ)(従三品・文散官)・ 秘書監(ひしょげん)及び 衛尉卿(えじょうけい)(職事官)を与えるように斡旋上請(あっせんじょうせい)しました。
 すなわち、仲麻呂は、真備に自分と同じ官位を与えることで親友を遇(ぐう)し、そして、藤原清河と大伴古麻呂に、真備に応じた官位を要請(ようせい)したわけです。

 楊貴妃が日本使節団とあったという記録はありません。しかし、真備をかつての臣下として、仲麻呂と同じに遇した玄宗は日本使節団に「有義礼儀君子国(ゆ うぎれいぎくんしこく)」と称号を与えています・・・・その言葉を与えた傍(かたわ)らには、楊貴妃が控えていたはずです。きっと、中国語が堪能(たんの う)な吉備真備とは言葉を取り交わした事でしょう。

 そしてさらに、 阿倍仲麻呂を感激させる出来事が起りました。
 阿倍仲麻呂は、藤原清河遣唐使節団の日本帰国に当たり、唐側送使団の長に選ばれます。すなわち、玄宗皇帝は日本使節団を送る唐の送使としての役割を阿倍仲麻呂に与え、実質上、日本に帰国する事を許したのでした。

 阿倍仲麻呂は、36年の歳月を過ごした唐の国と世話になった人々に別れを告げます。
 ここで少し、別れに際し、阿倍仲麻呂が、詩人の王維(おうい)に送った返歌を紹介しておきましょう。

 銜命将辞国   命を銜(う)けて将(まさ)に国を辞さんとす
 非才忝侍臣   非才にして侍臣を忝(かたじけ)なくす
 天中恋明主   天中 明主(めいしゅ)を恋い
 海外憶海外   海外 慈恩を憶(おも)う
 伏奏違金闕   伏奏して金闕(きんけつ)に違い
 騑驂去玉津   騑驂(ひさん) 玉津(ぎょくしん)を去る
 蓬莱郷路遠   蓬莱(ほうらい) 郷路(きょうろ)は遠く
 若木故園鄰   若木(じゃくぼく) 故園の鄰(となり)なり
 西望懐恩日   西望 恩を懐(おも)うの日
 東帰感義辰   東帰 義に感ずるの辰(とき)
 平生一宝剣   平生一つの宝剣
 留贈結交人   留めて交わりを結びし人に贈らん

 そうして、日本刀一振りを記念に渡したと伝わっています。
 ここで、阿倍仲麻呂が日本を「蓬莱」と、表現している事を覚えておいてください。

 こうして第一船には、大使・藤原清河と阿倍仲麻呂が、第二船には大伴古麻呂と、日本へ密航しようとしていた鑑真和上(がんじんわじょう)が、第三船には吉備真備が、第四船には判官(はんがん)の布勢人主(ふせひとぬし)が乗って、唐の国を出航したのでした。

●阿倍仲麻呂の遭難

 唐の国をそろって出航した日本使節団一行でしたが、途中で嵐にみまわれ、船団は、はぐれ、それぞれ、ばらばらに日本を目指します。
 12月20日、まず、大伴古麻呂と鑑真の乗る第二船が薩摩国(さつまのくに)の秋妻屋浦(あきめやのうら)に着きました。続いて、吉備真備の乗った第三船が、紀伊の太地(たいじ)に上陸しました。
 その後、遅れて、4月18日、布勢人主らが乗った第四船が、薩摩国の石籬浦(いしがきうら)に着いたと大宰府から知らせがありました。

 遣唐使として大きな成果をあげた吉備真備と大伴古麻呂は、従四位上から正四位下と一階級昇進しました。
 しかし、大伴古麻呂が左大弁になったのに対して、吉備真備に与えられたのは、左遷(させん)というべき大宰の大弐への任官でした。

 吉備真備は、奈良の都に帰って早々に、大宰府に旅立つ事になります。

 一方、藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船の行方は、朝廷の必死の捜索にもかかわらず、ようとして行方がわかりませんでした。

 日本でも、中国でも、阿倍仲麻呂の死亡は確実視され・・・仲麻呂と親しかった李白は、仲麻呂の死を悼む歌を読んでいます。

 日本晁卿辞帝都 日本の晁卿(ちょうきょう)(阿倍仲麻呂)帝都を辞し
 征帆一片遶蓬壷 征帆一片蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る
 明月不帰沈碧海 明月帰らず碧海(へきかい)に沈み
 白雲愁色満蒼梧 白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ

 しかし、阿倍仲麻呂の乗った船は、その頃、安南(あんなん)(ベトナム)に流れ着いていました。
 大部分の乗員が現地人に襲われたり、病気にかかって亡くなる中、藤原清河と阿倍仲麻呂はかろうじて生き残り、天宝14年(755)に、再び、長安にたどり着きます。

 安禄山が、范陽(はんよう)で兵をあげ、安史の乱が起こるのは、そのわずか数ヶ月後の十一月の事でした。

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どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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