●称徳天皇の死を受け入れきれなかった吉備由利
称徳天皇の崩御(ほうぎょ)を受け入れきれず、吉備由利は茫然自失(ぼうぜんじしつ)の思いであったでしょう。
称徳天皇の死に、由利は責任を感じていました。
助けられたはずなのに、救えなかったことももちろんですが・・・称徳天皇の男性(だんせい)依存(いぞん)体質(たいしつ)を変えるために、天皇に、閨
房(けいぼう)の悪い独(ひと)り遊びを教え込んだのも・・・・ おそらくは、由利だったでしょうから・・・・
●開かれた次の天皇を決めるための緊急会議
そんな中、宮廷内では、次の天皇を決めるための緊急(きんきゅう)会議(かいぎ)が招集(しょうしゅう)されていました。
続日本紀によれば、そこに集まったメンバーは、左大臣・従一位の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)永手(ながて)、右大臣・従二位の吉備(きびの)朝臣
(あそん)真備(まきび)、参議・兵部卿(ひょうぶきょう)・従三位の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)宿奈麻呂(すくなまろ)(藤原良継(ふじはらのよ
しつぐ))、参議・民部卿(みんぶきょう)・従三位の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)縄麻呂(ただまろ)、参議・式部卿(しきぶきょう)・従三位の石上
(いしがみの)朝臣(あそん)宅嗣(やかつぐ)、近衛大将・従三位の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)蔵下麻呂(くらじまろ)という面々でした。
注目すべきは、この会議のメンバーの中に、本来、当然加えるべきはずの・・・道鏡や、従二位大納言であった道鏡の弟の弓削(ゆげの)朝臣(あそん)清人
(きよひと)などの名前がないことです。きわめて、藤原氏の影響の色合いが強い構成でした。
そして、この中の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)宿奈麻呂(すくなまろ)は、百川(ももかわ)の兄で・・・藤原朝臣(あそん)蔵下麻呂(くらじまろ)
は、弟である・・・・というのにも、注目です。
●藤原氏に出し抜かれた吉備真備
続日本紀の中では、すんなりと白壁王(しらかべのおう)(光仁天皇(こうにんてんのう))に決まったように書いてありますが・・・・実態(じったい)
は、かなり違ったようです。
前に、参考にした「日本紀略(にほんきりゃく)」と「水鏡(みずかがみ)」には、「百川伝」をもとに、別の話が載せられています。
「水鏡」には、その名をわざとふせて書いてないのですが、会議をリードしたのは、吉備真備であったようです。
真備は、まず、天武天皇(てんむてんのう)
の孫(長親王(ながのしんのう)の息子)の大納言御史大夫(ぎょしたいふ)従二位の文室(屋)浄三(ふんやのきよみ)(※水鏡が「文屋」、日本紀略は「文室」になっています。)という人を推薦(すいせん)したようです。
それに対して、百川(ももかわ)達は、「浄三眞人有子十三人。如後世何。(浄三(きよみ)には、子が13人もいる・・・・後目(あとめ)争いになったら、どうするのだ!)」(日本紀略より)と言って反対しま
した。
そこで、真備は、今度は、浄三の弟の宰相(さいしょう)で参議従三位の文室(屋)(ぶんやの)大市(おおち)眞人(まひと)を推薦して、それに決まりそう
になっていたのですが、もう宣制(せんせい)を出すという段になって、永手や宿奈麻呂達が共謀(きょうぼう)し、百川が偽の宣命(せんみょう)を作っ
て、白壁王(しらかべのおう)を擁立(ようりつ)したというのです。
もちろん、称徳天皇(しょうとくてんのう)の寝所(しんじょ)には、吉備由利(きびのゆり)しか近づけなかったのですから、百川に天皇の親書(しん
しょ)が用意出来たはずがありません。きっと、吉備真備は由利から、称徳天皇の意向(いこう)も聞いていたはずです。
文室(屋)浄三や大市は、藤原氏と無縁の人物だったのでしょう。おそらく、藤原氏の勢力を抑えるために、吉備真備は、彼らを推薦した・・・そして、こ
れが、称徳天皇の意志でもあったでしょう。しかし、藤原氏の側は策謀をもって、自分達の影響力の届く白壁王を擁立したわけです。
偽文(にせぶん)とわかりながらも、吉備真備には、どうする事も出来ませんでした。
●辞任を決意した吉備真備
「長生之弊。還遭此恥。」(長く生きれば、このように恥(は)じをかくこともあるものか・・・・)(日本紀略より)
吉備真備は、めっきり自分の力の衰えを感じ、辞表を提出しました。
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