龍神楊貴妃伝

吉備真備の復権(国際緊張の中で浮かび上がってきた吉備真備の人力)

●吉備真備を無視できなくなった恵美押勝

 小野田守の報告は、最終的に、盤石(ばんじゃく)とみえた恵美押勝政権に致命的な打撃を与える事になるのですが・・・始めの影響は、小さなひびのようなものでした。

 恵美押勝の計算違いの一つは・・・こうして、国際状況が複雑になる中で・・・・外交の窓口であり門番ともいうべき大宰府(だざいふ)・・・・すなわち、 厄介(やっかい)払いのために都を追われたはずの吉備真備の役割が、朝廷の中で、とても重要なものになってしまった事でした。
 ・・・・おそらく、恵美押勝は、うまく橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)事件で排除出来なかったにせよ・・・・そのうち、なんらかの理由をつけて吉備真備を始末(しまつ)するつもりだったでしょう・・・。

 しかし、こうやって対外情勢が悪化している事がわかった今・・・・国際通としての吉備真備の能力は、朝廷にとって欠かせないものとなり、吉備真備を始末する事が出来なくなってしまったのです。

●吉備真備にあてた淳仁天皇の勅

 小野田守の報告があった直後、天皇(淳仁(じゅんにん)天皇)は、次のように大宰府に勅(ちょく)を出しました。
 『安禄山という人物は凶暴な胡(こ)人で、狡猾(こうかつ)な男である。天命にそむいて反逆を起こしたが、事は必ず失敗するであろう。恐らく征西(せい せい)の計画は不可能で、却(かえ)って海東(かいとう)を攻略にくるかも知れない。古人(こじん)は「蜂(はち)やさそりにさえ毒がある」(『左伝(さ でん)』)といっている。どうして人間にないことがあろうか。
 大宰帥(だざいのそつ)の船王(ふねのおう)と大弐(だいに)の吉備朝臣真備(きびあそんまきび)はともに碩学(せきがく)で、名声は当代に聞こえてお り、朕(ちん)は二人を心に選んで重い任務を委(ゆだ)ねている。よろしくこの状勢を理解して、予(あらかじ)め優れた策(さく)を建(た)て、たとえ禄 山(ろくざん)が来冦(らいこう)しなくても、準備は怠(おこた)ることがないようにせよ。立案した上策(じょうさく)と準備の詳細(しょうさい)は一々 具体的に記録して報告せよ』

 この勅(ちょく)の前後の状況から、幾つか読み取れる事があります。
 まず、天皇は、凶暴な胡人(こじん)だという安禄山に対する人となりについて述べていますが・・・これはどこから得た情報でしょう?どうも、日本の朝廷 は、小野田守(おののたもり)の報告の前から、安禄山(あんろくざん)という人物について知り、注目していたようですね。
 安禄山を知っているのは、前回の遣唐使であった人物しか知らないはずですから、情報の提供を行ったのは、おそらく、吉備真備か大伴古麻呂(おおとものこ まろ)です。もしかすると・・・・「安禄山が海東を攻略にくるかも知れない。」というのは、大伴古麻呂達・・・・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)事件で 処分された人々の主張だったのではないでしょうか?

 天皇の言葉に吉備真備と共に挙げられた船王(ふねのおう)は大宰帥(だざいのそつ)で・・・言わば、吉備真備の上官であった人物ですが、船王は淳仁 (じゅんにん)天皇の兄であり・・・恵美押勝(えみのおしかつ)の息のかかった人物でした。恵美押勝は、船王を吉備真備に対するお目付(めつけ)役の意味 を兼(か)ねて配置(はいち)していたのかもしれません。
 ・・・しかし、おそらく、船王は、大宰府に赴任(ふにん)はしていず、奈良の都に暮らしていたでしょう。船王は、橘奈良麻呂事件では捕縛(ほばく)の役 として活躍しています・・・と言えば聞こえがいいですが・・・橘奈良麻呂や大伴古麻呂達にめちゃくちゃな拷問(ごうもん)をかけた人物です・・・すなわ ち、この時、 船王は、 都にいました。
 ・・・したがって、実質上、大宰府として安禄山からの日本防衛(にほんぼうえい)の命を受けた責任者は、吉備真備だった・・ということになります。

●あわてて外交政策を見直した恵美押勝

 恵美押勝は、この後、大慌(あわ)てで巻き返しを計り、外交政策の主導権を握(にぎ)ろうとしました。
 3ヶ月も越前(えちぜん)の国に閉じ込めておいたのを・・・・手の平を返したように・・・・ 恵美押勝は、渤海の使者達を正月の朝賀(ちょうが)の列に参席させ、手厚く歓待(かんたい)しました。正月の27日には、私邸に招いて、宴会を開いています。
 そして、渤海の使節を渤海に還(かえ)すにあたり、船を用意し( 恵美押勝は、橘奈良麻呂事件を受けて・・唐に人を送りこむための 船をあらかじめ準備していました。これは、天平宝字2年(758)3月16日の記事から読み取れます。)同時に、日本から迎入唐大使使(げいにっとうたい しし)(入唐している日本大使を迎える使い)として、高元度(こうげんど)を指名し、渤海に送り込みました。

 高元度は、渤海の使節、揚承慶(ようじょうけい)達を渤海に送り届けた後、その足で唐の国へと向(むか)い・・・遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよか わ)(阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と共に第1船に乗り込み、遭難(そうなん)したうえ行方不明となっていた)を日本に帰してもらうという使命を与えられ ていました。ここから、小野田守の報告の中に、藤原清河(ふじわらのきよかわ)と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の生存情報があったと考えられています。

筆者考察
小野田守の帰還」に示したように、続日本紀に書かれた小野田守の報告の中に、阿倍仲麻呂の事はもちろん、藤原清河の事も、一言も書かれていません。本当に、報告の中に、藤原清河の生存情報があったのでしょうか?
小野田守の報告からは、出来るかぎり正確に情報を得ようとした態度が、読み取れますが、日が違っていたり、安禄山の死の情報がないなど不完全です。渤海の地で唐の国での出来事の正確な情報を得ようというのは難しかったでしょう。渤海にとって、大変な関心事であっただろう唐の国の動乱の情報でさえこうなのです。ましてや、渤海の人々が、日本の一大使にすぎない藤原清河の生存情報など持っていたでしょうか?
ひょっとすると、藤原清河の生存情報は、清河と一緒に遭難の旅をした阿倍仲麻呂によってもたらされていたのではないでしょうか?
安倍晴明の前世譚」では、「阿倍仲麻呂は、唐の国に魂を売ったのだ」という噂があったというシーンがあります。
藤原清河の生存情報は、阿倍仲麻呂によってもたらせながら、このときまで信用されていなかったのではないでしょうか?

●吉備真備の奏上と大宰府(吉備真備)の復権

 一方、吉備真備は、天皇からの勅を受けて、天平宝字3(759)年3月24日、次のように言上(ごんじょう)しています。
 『大宰府の官人として管内(かんない)を見ますと、現在不安に考えることが4つあります。警固式(けいごしき)(大宰府警固の細則(さいそく)集)による と、博多(はかた)の大津(おおつ)および壱岐(いき)・対馬(つしま)などの要害(ようがい)の地には、百隻以上の船をおいて、不測(ふそく)の事態に 備えることになっていますが、現在は使用できる船がなく、すべていざという場合に間に合いません。これが第一の不安であります。
 大宰府は三方が海に面しており、もろもろの蕃国(はんこく)と向きあっています。しかるに東国の防人(さきもり)を停止してから、国境の守りは日毎(ひ ごと)に荒れ果てていきます。もし不慮(ふりょ)のことが起こり、万一(まんいち)の事変(じへん)がおこれば、どのようにして俄(にわか)の事態(じた い)に応じ、どのようにしてわが方の威力(いりょく)を示すことができましょうか。これが第二の不安であります。
 管内の防人はもっぱら城を造ることを停止し、武芸の修練(しゅうれん)につとめ、戦場での陣(じん)立てを習うことになっています。しかし大宰大弐の吉 備朝臣(あそん)真備は、「古人も農耕をし、また戦闘をするのはよいことである、といっているから、五十日間武芸(ぶげい)を教習(きょうしゅう)し、十 日間城を築く労役(ろうえき)につかせよう」と論(ろん)じています。真備(まきび)の請(こ)うように行なうべきであるといっても、大宰府の役人の中に は、賛同(さんどう)しない者もあります。これが不安の第三であります。
 天平4年8月22日に勅(ちょく)があり、西海道(さいかいどう)諸国にいる兵士たちは、調(ちょう)・庸(よう)をすべて免除し、地域の白丁(無位無 官の庶民)は。調を免除して庸だけを輸納させることになりました。当時としてはそれで民は休養でき、兵は強くなり、まさに国境の鎮(しず)めというべきで した。今管内(かんない)の人民は、窮乏(きゅうぼう)の極(きわ)みにあるものが多く、租税(そぜい)の労役(ろうえき)の減税(げんぜい)がなけれ ば、自立することができないでしょう。これが不安の第四であります。』

 この言上から、これまでの恵美押勝の政策が、いかに、吉備真備達、大宰府の力を削(そ)ぐ事に腐心(ふしん)して来たかが感じられます。
 吉備真備の陳情(ちんじょう)を受けて、恵美押勝は、全てを赦(ゆる)しはしませんでしたが・・・ 真備の言上の正当性を認め、 船を造ることや、防人を労役(ろうえき)につかせることなど、懸案(けんあん)通りにせざる得(え)ませんでした。

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