龍神楊貴妃伝

開元の御代(玄宗皇帝の時代)

 楊貴妃について聞いたことがないという人は、まず、いないでしょう。クレオパト ラ、小野小町とならぶ、世界最高の美女として知られています。
 しかし、それ以外の事は、知らないという人が、ほとんどではないでしょうか?
 私としては、すぐにでも、楊貴妃が亡命してきた根拠をしめしたいところなのですが・・・・これを語るためには、楊貴妃について少し詳しい知識が必要と なってくるのです。

 そこで、先に、歴史書に書かれた楊貴妃の生涯と、楊貴妃の生きた時代の事について、語らねばなりません。
 
 楊貴妃の生きた時代は、中国の唐という時代です。唐は、日本の飛鳥時代から平安京の時代の初期まで、中国を支配していた帝国でした。
 奈良の平城京も、京都の平安京も、この唐の都である長安をモデルとしたものです。
 奈良時代の基本制度である律令制度(りつりょうせいど)も、この唐の制度を真似たもので、日本は、盛んに、唐と交易し、その文化を吸収しようとしていま した。
 楊貴妃の生きた時代には、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や吉備真備(きびのまきび)を始め、有能な人材が海を超え、唐に渡り、その知識を学びました。奈 良に大仏が作られ、鑑真和上(がんじんわじょう)が、日本にやって来たのも、この頃です。

 この時代の皇帝は、玄宗で、唐の6代目の皇帝です。1代目は、高祖ですが、2代目以降は、太宗、高宗、中宗、睿宗(えいそう)と代々、◯宗と名乗るのが 慣例でした。(この慣例は、この時代から始まるもので、その前時代である隋や漢の時代には、皇帝は「◯宗」とは名乗っていません。)

 こうして書くとずっと、唐という平和な時代が続いて来たようですが、実は、そうではありません。
 玄宗が子供の時代、中国は、唐の国ではなく、周という国でした。太宗、高宗と2代に続いて后となり、権力を掌握し、中国唯一の女帝となった則天武后(そ くてんぶこう)が支配していたのです。
 則天武后は、705年にクーデターで退位させられ、国号は、唐にもどり、中宗、睿宗(えいそう)と続くのですが・・・この時代は、女禍の時代と言われま す。
 則天武后の後も、韋后(いこう)、安楽公主、太平公主と次々と強力な権力を掌握する女傑があらわれ、中宗は 韋后、安楽公主に毒殺されますし、睿宗は太平公主のあやつり人形でした。
 睿宗は、これを憂い・・・自分の息子で、豪邁で知られた玄宗に皇帝位を譲位し、太平公主の野望をくだいたのでした。

 玄宗は、年号を「開元(かいげん)」と名付け、人材を登用し、富国強兵をかかげました。社会は安定し、連年の豊作が続き、太平の気分がみなぎったので、 皆が玄宗の治世を褒めたたえたといいます。そこで、この時代を「開元の治」と言います。

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どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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