龍神楊貴妃伝

井上内親王事件3(井上内親王事件はなぜ起ったか?)

●井上内親王事件発生に対する疑問

 井上内親王事件は、百川たち、藤原式家が、井上内親王と佗戸親王(おさべしんのう)を排除し、山部親王を擁立(ようりつ)するために起こしたものであっ た事は間違いありません。
 しかし、私の疑問は、なぜ、式家が井上内親王と佗戸親王を排除する必要があったのか?という点です。

●なぜ、佗戸親王が後継では、都合が悪かったのか?

 先に述べたように、光仁(こうにん)天皇がたてられた理由の一つには、妻が井上(いがみ)内親王で、井上内親王が天武天皇の血をひいているため、佗戸 (おさべ)親王が、天智、天武の両方の血をひく御子(みこ)だと考えられたからだと言われています。
 それなのに、井上内親王と佗戸親王を排除するという事は、光仁天皇がたてられた理由さえ、否定するようなものです。

●次の天皇に対して同床異夢をみていた藤原式家と北家

 一つには、多くの歴史研究家の言っている事ですが・・・・井上内親王事件の前年の宝亀(ほうき)2年(771)2月22日に起きた藤原北家(ほっけ)の 左大臣・藤原永手(ふじはらのながて)の死去が関係している事は間違いないでしょう。
 たしかに、藤原北家と式家は、同床異夢(どうしょういむ)を見ていて、永手(ながて)の死去によって、それが表面化してきたという事はいえるかもしれま せん。
 しかし、私は、それでも、永手の死が、式家にとって、井上内親王(いがみないしんのう)や佗戸親王(おさべしんのう)を不要(ふよう)とする事になった 理由にはなりえないと思います。

●藤原式家にとって井上内親王・佗戸親王路線が不都合と感じさせた理由とは?

 次の後継者(こうけいしゃ)として、井上内親王や佗戸親王では、都合が悪いと感じさせる何かがあったはずです。
 私は、その理由が、吉備由利(きびのゆり)の存在ではなかったかと思います。
 この時、吉備由利(きびのゆり)は、後宮12宮の押しもおされぬトップである尚蔵(くらのかみ)の地位にありました。そして、井上内親王(いがみないし んのう)に仕(つか)えていました。

●井上内親王と親しかったであろう吉備由利

 先に書いたように、井上内親王は、称徳天皇(しょうとくてんのう)の異母姉(いぼあね)でした。おそらく、吉備由利(きびのゆり)は、井上内親王に、称 徳天皇と同じ雰囲気(ふんいき)を覚えて親近感(しんきんかん)を感じていたでしょう。井上内親王は内親王で、後宮(こうきゅう)の中で、キラキラと笑顔 (えがお)を振りまき、くるくると頭(あたま)の回転の早い由利(ゆり)にとても魅力(みりょく)を感じていたでしょう。だから、井上内親王は、光仁天皇 (こうにんてんのう)に、由利の噂(うわさ)をちょくちょく話し・・・光仁天皇も由利に興味を覚える事になったのではないでしょうか?

●吉備由利を怖れた藤原百川

 おそらく、式家(しきけ)・・・・特に、百川(ももかわ)は、そんな吉備由利に脅威(きょうい)を覚えていたでしょう。
 式家(しきけ)に災(わざわ)いをもたらした吉備真備(きびのまきび)の妹であり、恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ))の 乱(らん)の制圧(せいあつ)を影から指示したと言われ、唐の国を滅ぼそうとした傾国(けいこく)の美女とも狐(きつね)だともいう噂(うわさ)を持ち、 妙(みょう)な技能(ぎのう)と知識(ちしき)を屈指(くっし)して、称徳天皇(しょうとくてんのう)殺害(さつがい)も邪魔(じゃま)しようとし た・・・吉備由利(きびのゆり)は、藤原式家(ふじはらしきけ)にとって、恐るべき存在でした。
 そして、井上内親王も、吉備由利と結びつく事によって、式家にとって邪魔(じゃま)な存在だと思われる様(よう)になっていたのではないでしょうか?

●井上内親王事件を言いがかりに吉備由利を葬った藤原百川

井上院
井上親王が閉じ込められていたと伝わる井上院。
当時は、現在よりも、500m ほど、南にあったと伝わる

 井上内親王事件が起ったとき、当然、吉備由利(きびのゆり)は、井上内親王(いがみないしんのう)の味方にまわったでしょう。そして、それこそが、百川 (ももかわ)の狙(ねら)いでした。

 宝亀(ほうき)4年(773)10月19日、続日本紀(しょくにほんぎ)に次のような記事があります。
 『当初(とうしょ)、井上(いがみ)内親王は呪詛(じゅそ)した罪に問われて皇后を廃されたが、後にもまた難波内親王(なにわのないしんのう)を呪詛 (じゅそ)した。この日、天皇は詔(みことのり)して、井上内親王とその子の他戸(おさべ)王を大和国宇智郡(うちのごおり)にある没官(ぼつかん)の邸 宅(ていたく)に幽閉(ゆうへい)した。』
 原文 『初井上内親王坐巫蠱(ふこ)廃。後復厭魅(えんみ)難波内親王。是日。詔幽内親王及他戸王于大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)没官之 宅。』
注・巫蠱(ふこ)は虫を使った呪術、また、厭魅(えんみ)は人形を使った 呪術の事

 私は、続日本紀の現代語訳を、講談社学術文庫の宇治谷 孟氏の訳によっています。・・・宇治谷 孟氏の訳では、ここは「官に没収(ぼっしゅう)した邸 宅」になっています。しかし、私は、この場合、原文から見て、「官を没収(ぼっしゅう)された者の邸宅」と捉(とら)えた方が自然ではないかと考えまし た。

 この「官を没収された者」とは誰か?
 私は、続日本紀には、わざと隠されていると感じますが・・・・やはり、この「官を没収された者」とは、この時の流れと状況から考え、吉備由利(きびのゆ り)の事ではなかったか?と思うのです。

 そして、大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)・・・・もう、すでに何度も登場しているので、これを読んだ瞬間に反応した読者の皆さんもいるでしょ う。
 そこは、吉備真備の母、楊貴(やぎ)氏の眠っている場所であり、そして、空海が南山の犬飼とあった場所です。
 私は、楊貴妃・・・・すなわち、吉備由利の墓が、この大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)にあったのではないかと想像してきました。そして、由利 が始め、吉備真備の母方の家を継(つ)いだ妹として、楊貴(やうき)氏を名乗っていたのではないかと想像してきました。

 この想像が正しいなら、吉備由利(きびのゆり)は大和国宇智郡(やまとのくにうちのごおり)に屋敷を持っていたはずです。
 吉備由利は、官位を没収され、井上内親王と他戸王と共に、自分の屋敷内に幽閉されたのではないでしょうか?

 そして、そこからおよそ3ヶ月後の宝亀(ほうき)5年(774) の正月2日・・・・・吉備由利は、生命を奪われたと考えられます。


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