熊野権現垂迹縁起

熊野權現(ごんげん)御垂跡縁起(すいじゃくえんぎ)云。往昔、甲寅(きのえ と ら)年唐乃天台山乃王子信(王子晋(おうししん)。中国の天台山の地主神)奮跡(旧跡)也(なり)。日本國鎮西(ちんぜい)(九州)日子乃山峯(英彦山 (ひこさん))雨振給(あまくだりたまう)。其躰(そのかたち)八角奈留(なる)水精(すいしょう)乃石高佐(さ)三尺六寸奈留仁天天下(あまくだり)給 (たま)布(う)。次五ヶ年乎(を)經(へ)天(てん)。戊午(つちのえうま)年、伊豫(いよ)國(今の愛媛県)乃石鐡乃峯(石槌山(いしづちさん))仁 (に)渡給(わたりたまう)。次六年乎(を)經旦(へたり)。甲子(きのえね)年淡路國(今の兵庫県の淡路島)乃遊鶴羽乃峰(諭鶴羽山(ゆづるはさん)) 仁(に)渡給(わたりたまう)。次六箇年過(すぎる)。庚午(かのえうま)年三月廿(にじゅう)三日紀伊國無漏(むろ)郡切部山(きりべやま)乃西乃海乃 北乃岸乃玉那木(たまなぎ)乃淵(ふち)農(の)上乃松木本(まつのきのもとに)渡給(わたりたまう)。次五十七年乎過(がすぎた)。庚午(かのえうま) 年三月廿(にじゅう)三日熊野新宮乃南農(の)神蔵(かみくら)峯降給(おりたまう)。次六十一年後庚午(かのえうま)年新宮乃東農(の)阿湏加(あす か)乃社乃北石淵(いしぶち)乃谷仁(に)勸請(かんじょう)靜奉(したてたまい)津留(つる)。始(はじめ)結玉家津美御子(ゆりたまけつみみこ)登申 (ともうす)。二宇(にうの)社(やしろ)也(なり)。次十三年乎過旦(がすぎた)。壬午(みずのえうま)年本宮大湯原(大斎原(おおゆのはら))一位木 (いちい)三本乃末(こずえ)三枚月形仁天(にて)天降給(あまふりたまう)。八箇年於經(がすぎた)。庚寅(かのえとら)農(の)年石多河(石田川(い わたがわ))乃南河内乃住人(じゅうにん)熊野部千輿定(ちよさだ)土(と)云(いう)犬飼(猟師)。猪長一丈五尺(約4.5m)奈留(なる)射(をい る)。跡追(あとをおい)尋(たず)旦(ねて)石多河於(を)上行(さかのぼった)。犬猪乃跡於(を)聞旦(おって)行仁(いくに)、大湯原(おおゆのは ら)行旦(についた)。件(くだんの)猪(いのしし)乃一位(いちい)農(の)木乃本(もと)仁(に)死伏(しにふ)世利(せり)。宍(しし)於(を)取 (とり)旦(て)食(しょくす)。件(くだん)木下仁(に)一宿於(を)經(へ)旦(たり)木農(の)末(こずえに)月乎(を)見付旦(みつけて)問(と い)申具(もうした)。何(なぜ)月虚空(こくう)於(を)離(はなれ)旦(て)木乃末(こずえ)仁波(になん)御坐(ござる)止(と)申(もおす)仁 (に)。月(つき)犬飼仁(に)答(こたえて)仰云(おおすに)。我乎波(はなん)熊野(くまの)三所(さんしょ)權現(ごんげん)止(と)所(ぞ)申 (もおす)。一社(いっしゃ)乎(は)證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)土(と)申(もおす)。今(いま)二枚(にまいの)月乎者(なるは)兩所 (りょうしょ)權現(ごんげん)土(と)奈牟(なむ)申(もうすと)仰(おおせ)給(たま)布(う)云々(うんぬん)。

 熊野權現(ごんげん)御垂跡縁起(すいじゃくえんぎ)の伝え。
 昔、甲寅(きのえとら)の年、唐の天台山(てんだいさん)の王子信 (王子晋(おうししん)。中国の天台山の地主神) の旧跡が、日本の鎮西(ちんぜい)(九州)の日子の山峯(英彦山(ひこさん))に天降(くだ)りになった。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。 そのような姿で天(あま)降(くだ)りになった。それから5年が経った。  戊午(つちのえうま)の年、伊予国(いよのくに)(今の愛媛県)の石槌の峯(石槌山(いしづちさん))にお渡りになった。それから6年が経った。甲子 (きのえね)の年、淡路国(あわじのくに)(今の兵庫県の淡路島)の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山(ゆづるはさん))にお渡りになった。それから6年が過ぎた。  庚午(かのえうま)の年3月23日、紀伊国牟婁(むろ)郡切部山(きりべやま)の西の海の北の岸に玉那木(たまなぎ)の淵の上の松の木の本にお渡りに なった。それから57年が過ぎた。  庚午(かのえうま)の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵(かみくら)の峯にお降りになった。それから61年後の庚午(かのえうま)の年、新宮の東の阿須 加(あずか)の社(やしろ)の北、石淵(いしふち)の谷に勧請(かんじょう)し奉(たてまつ)った。初めは結玉家津美御子(けつみみこ)と申した。二宇 (にう)の社であった。それから13年が過ぎた。  壬午(みずのえうま)の年、本宮大湯原(大斎原(おおゆのはら))の一位木(いちい)の3本の梢(こずえ)に3枚の月形(つきがた)にて天降(くだ)り なさった。8年が経った。  庚寅(かのえとら)の年、石多河(石田川(いわたがわ))の南、河内(かわうち)の住人、熊野部(くまのべ)千代定(ちよさだ)という犬飼(猟師)が体 長1丈(じょう)5尺(しゃく)(約4.5m)もの猪(いのしし)を射た。跡を追い尋(たず)ねて、石多河を遡った。犬が猪の跡を追って行くと、大湯原に 行き着いた。  件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。件(くだん)の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。「どうして 月が虚空(こくう)を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。  月が犬飼に答えておっしゃった。「我は熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)である」と。「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。今2 枚の月は両所権現(りょうしょごんげん)と申す」とおっしゃった。
王子晋 についての考察
 王子晋は、周の霊王の太子で若くして亡くなりましたが、仙人になったとも言われています。笙の名手と言われ白鶴に乗って天に昇ったとされています。
 「キツネと ヤタガラスが語る楊貴妃信仰」に書いた董双成もまた、笙の名手と言われ鶴に乗って仙人になったと言われていますので、 王子晋と董双成は、属性がよく似ています。
 李白には、董双成を詠んだ詩「桂殿秋」がありますが、李白の後継者と言うべき、白居易には、王子晋を詠んだ詩「王子晋庙」があります。
 
『桂殿秋 李白』
仙女下,董双成,汉殿夜凉吹玉笙。曲终却从仙宫去, 万户千门惟月明。
仙女、董双成は下りて、漢殿の夜は、涼し く、玉笙を吹く。曲を終わって、仙宮に去れば、万戸、千門、ただ、月明かりのみである。

『王子晋庙 白居易』
子晋庙前山月明,人闻往往夜吹笙。鸾吟凤唱听无拍,多似霓裳散序声。
子晋の廟の前山に、月明かりがあれば、人は、夜、往々にして、笙が吹かれるのを聞く。鸞や鳳凰の声のような拍子ではなく、霓裳羽衣の曲の散序(イントロ部 分)に似る。
※白居易の別の詩によれば霓裳羽衣の曲には、散序が六奏あったという。舞わないで演奏するので散序だという。
『霓裳羽衣歌 白居易』“散序六奏未动衣,阳台宿云慵不飞。"自注:“散序六遍无拍,故不舞也。"


 白居易は、李白の「桂殿秋」を受けて、この「王子晋庙」を詠んだものでしょう。しかも、楊貴妃が舞ったという「霓裳羽衣(げいしょううい)の曲」が出て来ています。
 実は、王子晋には、これが、董双成と同じく『漢武帝内伝』に西王母の侍女として書かれている「王子登」なのだという話があります。
 李白の詩も、白居易の詩も、当時の貴族達に広く知られていたはずで、王子晋が西王母の侍女なのだとすれば、この熊野権現垂迹縁起に王子晋が登場する事は、熊野に祀られている神が、西王母(楊貴妃)であるという事を暗示し ているといえるのではないでしょうか?


資料1
『列仙传』
「王子乔者,周灵王太子晋也。好吹笙作凤凰鸣,游伊洛间,道士浮丘公接以上嵩高山上。三十年后,求之于山上,见桓良,曰:‘告我家,七月七日,待我于缑氏 山头 ’。至时,果乘白鹤驻山头。望之不得见,举手谢时人,数日而去。」
『列仙伝』
 「王子喬は、周の霊王の太子晋である。笙を吹くことを好み、鳳凰の鳴き声をだすことができた。伊水と洛水の間を遊行する際、道士の浮丘公とと もに、嵩高山 に入った。 30年の後に山上で恒良という者の前に現れ、「7月7日に緱氏山頂で待っているよう、我が家に伝えてほしい。」と告げた。その時にな り、果たして白鶴に乗り、山頂に現れたが、望んでも近付く事ができない。手を上げて人に挨拶をし、数日して去っていった。」

資料2
几十年后七月七日,王子晋乘白鹤升天 而去,远近可见,人们说:“王子登仙。”
30年後の7月7日、王子晋は、白鶴 に乗って天に昇って行き見えなくなったという。これは、「王子登仙」 の事だと言われて いる。

資料3
『汉武帝内传』
王母乃命诸侍女王子登弹八琅之璈,又命侍女董双成吹云和之笙,石公子 击昆庭之金,许飞琼鼓震灵之簧,婉凌华拊五灵之石,范成君击湘阴之磬,段安香作九天之钧。
『漢武帝内伝』
王母は侍女の王子登に 命じて八琅の璈を弾じ、また董双成に命じて雲和の笙を吹かせ、石公子に昆庭の金を撃たせ、許飛瓊に震霊の簧を鼓させ、婉凌華に五霊の石を拊(う)たせ、范 成君に湘陰の磬を撃たせ、段安香に九天の鈞を作らせた。
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