まとめ・龍神楊貴妃伝の主な仮説とその根拠

  龍神楊貴妃伝の提供する下記の仮説は、すべて筆者が主張する独自の仮説で、現在、どれ一つとして認められているものはありません😂
(「阿倍仲麻呂が楊貴妃を日本に連れて来た」というのは、他の方も言ってみえるようです。😓ただし、根拠については、「阿倍仲麻呂は唐の国で高官となり、楊貴妃とは近しい関係であった。」を除いて、私のオリジナルです。) 
 しかしながら、それを裏付ける幾つもの証拠に支えられていて・・・きちんと検討・評価されるべき仮説だと思います。
 それは、全部の文章を読んでいただければ理解出来るはずなのですが・・・・なかなか、読んでいただく事を皆さんに求める事は難しいでしょう・・・。

 そこで、まとめのページをつくりました。信憑性の評価は筆者の主観による自己評価ですので、読者の方の意見は違うかもしれませんが・・・特に評価の高い ものは、筆者が絶 対の 自信をもって提供するものです。ご意見や反論がありましたら、ご連絡をまっています!!トッ プ ページ総合目次のページから連絡可能です)😇

評価基準 😇 ほとんど完璧!!!疑いなし!

😁 まあ、間違いないだろう!

😓 多少、多目にみてやってくれ・・・

仮 説 評価 主な仮説の根拠と本文詳細ページへのリンク
野馬台(臺)詩は楊貴妃が書いた 😁 野馬臺詩は「江談抄・吉備入唐の間の事」に引用されていて、楊貴妃の時代(奈良時代中期〜後半)に書かれたと考えら れる。1
文が、安史の乱の前後の唐の国の状況を伝えていると読める。1
内容から、唐側の皇帝ではない、しかし、皇帝に準ずる身分の者が書いたと考えられる。1
楊貴妃は、西王母と同一視されていた 😇 李白は、楊貴妃の美しさを西王母に例えていた。1
杜甫は、楊貴妃を西王母に例えて詩文をつくっている。1
白居易は、長恨歌の中で、楊貴妃を西王母に例えている。1
九尾の狐伝説は、楊貴妃がモデルとなっている
😇 九尾の狐は、西王母の使いとされていた。1
九尾の狐には、吉備真備によって唐の国から日本に連れられて来たという伝説がある。1
杜甫は、楊貴妃を九尾の狐だとされる褒姒や妲己に例えている。1
沈既済は、楊貴妃をモデルとした狐の美女の物語を書いている。1
日本で最初に九尾の狐の事件の事を記録した大江匡房は、そこに楊貴妃の事を書いていたと考えられる。1
吉備真備は、楊貴妃を庇護していた
😁 吉備真備には、狐と呼ばれた美女を唐の国から連れて来たという伝説がある。12
吉備真備の母の墓誌に、吉備真備の母は、「楊貴氏」だと書いてある。1
吉備真備は、安史の乱が起った時、外交の門番である大宰府の長官(大弐)であり、楊貴妃とは顔なじみであった。12
阿倍仲麻呂が楊貴妃を日本に連れて来た
😓 阿倍仲麻呂は唐の国で高官となり、楊貴妃とは近しい関係であった。1
阿倍仲麻呂には、唐の国で幽鬼となって吉備真備と共に活躍する話があるが、楊貴妃の史歴上での死である安史の乱の 起った時、日本では、阿倍仲麻呂は遭難して死んでいるとみなされていた。1234
平安時代の人間が、阿倍仲麻呂の帰朝した可能性を疑っていた。1
今昔物語に阿倍仲麻呂が日本に帰って来たと書かれてある。1
空海と橘逸勢は、楊貴妃事件の調査のために唐の国に渡った
😁 橘家(橘奈良麻呂)は、楊貴妃渡来事件に関わっていたと考えられるが、橘逸勢は、橘奈良麻呂の孫である。12
空海の母は阿刀氏で、吉備真備の親友であった玄ムも阿刀氏であり、楊貴妃を匿っていたと考えられる熊野直も阿刀氏である。1
橘逸勢には、唐の国で表立った活躍をしている記録がないにもかかわらず、桓武天皇は、高階遠成を橘逸勢を迎える使いとして遣唐している。12
空海には、唐の国で稲荷神(狐神)と誓約を結んだという伝説がある。1
空海には、唐の国の港から三鈷を投げたという伝説があるが、この三鈷とは、三狐神(みけつかみ)の事だと考えられる。12
空海と橘逸勢の白居易との出会いが、「長恨歌」を生み出した
😁 空海と白居易は、共に、仏教と詩歌に興味を持っていた。1
空海と白居易は、共に、805年に長安で暮らしており、白居易には、空海と橘逸勢の居住していた「西明寺」を訪ねた記録がある。1
白居易は、空海と橘逸勢が唐の国を去った806年に「長恨歌」を上梓している。1
熊野三山には楊貴妃が祀られている
😇
熊野の使い「ヤタガラス」は、西王母の使いである「三足烏」と同一である。1
熊野には、「五衰伝の女御」が熊野の神に成ったという古い伝承があるが、楊貴妃にも、五衰した仙女だというお話(能)がある。1
鎌倉時代の初期、熊野湯の峯温泉を訪れた藤原頼資が、この湯を楊貴妃の湯だと讃えている。1
熊野には、「狐」を正体とする女神を祀った痕跡がある。12
伏見稲荷には楊貴妃が祀られている
😁 伏見稲荷には、たくさんのキツネが神の使いとして祀られているが、その起源がわかっていない。これは、キツネの女神 (楊貴妃)を祀ってあるからではないか?1
伏見稲荷は、空海によって田辺で出会った稲荷神(老翁)を祀ったものだとされるが、空海は、この稲荷神とは、その前に、唐の国で誓約を結んだとしていて、 その時の姿は、老翁ではなかったと書かれる。1
この稲荷神が、京に来る時、稲を荷なって来たと記録されるが、この稲が舎利(骨)の意味だと言う伝承がある。1
伏見稲荷の麓に楊貴妃観音のある泉涌寺があり、伏見山と泉涌寺の間は、平安京建設時、東寺をつくるため、稲荷山から樹を切り出すための車道で結ばれてい た。1
泉涌寺の元は、泉涌寺の敷地内にある今熊野観音寺だと伝えられ、この寺院は、空海が作ったものとされており、熊野権現と稲荷神を祀っている。1
高野山には楊貴妃が祀られている
😁 空海が高野山をつくるきっかけとなった「南山の犬飼」と伏見稲荷を灌頂した「稲荷神」は、風体が同じで、同一人物と 考えられる。1
「南山の犬飼」は、「丹生都姫」の化身とされるが、この「丹生都姫」は、しばしば中国風の美女の姿で描かれる。1
空海が、唐の国の港から投げた三鈷は、高野山の松の木にひっかかっていたとされるが、この三鈷は、三狐神の事だと考えられる。12
高野山で祀られる「大日如来」は宇宙を支配する仏であるが、「西王母」も太陽と月の支配者とされており、同一視されていたと考えられる。1
ダキニ天は、しばしば、狐の乗った美女の姿で描かれるが、これは、ダキニ天が大日如来の使いであると考えられたからだと思われる。1
龍神村には楊貴妃が隠れ棲んでいた
😁 龍神村の江戸時代の絵図面には、「ヤウキヒ桜」又は「ヤウキ桜」と名付けられた桜の樹が描かれている。12
龍神村の名前の由来は、楊貴妃を示す「柳人(リュウジン)」から来たのではないか?1
空海が、龍神温泉で出あったとされる難陀龍王は、高野山の「南山の犬飼」や伏見稲荷灌頂の「稲荷神」と同一人物と考えられる。1
難陀竜王は、那智大社に飛瀧権現・大己貴命の本地とされる古文書があるが、田辺の闘鶏神社の古文書には、熊野権現が龍神・大己貴命となって龍神山に向かっ た伝説がある。1
田辺には空海が創ったとされる「高山寺」があるが、そこから、空海が出会ったとされる「伊作田稲荷神社」「龍神山」を結んだ延長上に龍神村がある。空海 は、楊貴妃が棲んでいたところとして龍神温泉を霊地にしたのではないか。12
龍神村には、明治の合祀令までは、いくつもの丹生都姫を祀る神社があった。1
安倍晴明は、楊貴妃渡来事件に興味を持っていたと考えられるが、その安倍晴明が龍神村に来た伝説が幾つも残されている。123
「橘奈良麻呂の乱」は楊貴妃の伝えた大唐帝国の崩壊情報を憂慮したものだった
😁
野馬台(臺)詩は楊貴妃が大唐帝国の崩壊情報を日本につたえるために書いたと考えられる。1
この野馬臺詩が掲載された江談抄「吉備入唐の間の事」は、橘家の先祖から伝わるとされるが、それは、「橘奈 良麻呂」の事だったと考えられる。1
橘奈良麻呂と共に、乱の首謀者だったとされる大伴古麻呂は、遣唐副使として唐に渡っており、楊貴妃とは顔なじみであった。12
橘奈良麻呂の乱には、多くの渡来人(秦氏)の者達が関与していた。1
楊貴妃は、吉備由利として生きた
😁
楊貴妃は、吉備真備の妹を名乗ったと考えられる。1
吉備由利は、「恵美押勝の乱」が起るまで記録に登場せず、前半生が不明である。1
南山の犬飼には、「百合野明神」という別名があるが、これは、犬飼が「吉備由利」の霊を祀っていたためではないか?1
熊野三山に祀られる最も重要な神は「結神」だと考えられるが、これは「由利神」の事だと思われる。1
「恵美押勝の乱」は、楊貴妃が関与していた
😁
吉備由利は、「恵美押勝の乱」の直後、三階級得進し、さらに、翌年、勲4等を与えられている。1
「恵美押勝の乱」の最中、恵美押勝の泊っていた屋敷に星が落ちて来たとされるが、これは、中国で使われていた「投石機」による攻撃だと思われる。12
恵美押勝の第6子、刷雄だけは、殺されず隠岐国に流刑とされた。刷雄の罪が軽減されたのは、刷雄が留学生として唐の国に渡っており、楊貴妃と知り合いで あったためではないか?12
「宇佐八幡神託事件(道鏡事件)」は、楊貴妃が関与していた
😓
吉備真備の親友であった玄ムは、道鏡の兄弟子であった。1
「宇佐八幡神託事件」に関与した法均(和気広虫)は、吉備真備と同じく、吉備出身で、恵美押勝の乱では、吉備由利と同様、活躍したとされており、吉備由利 と近しい関係だったと考えられる。1
「宇佐八幡神託事件」からまもなく、称徳天皇は態度を軟化させているが、称徳天皇の気持ちによりそえる人間が、吉備由利以外、見あたらない。1
「井上内親王事件」に巻き込まれ、楊貴妃は死去した。
😓
井上内親王と他戸王子は、大和国宇智郡にある没官の屋敷に幽閉されたが、吉備由利(楊貴妃)は、大和国宇智郡に屋敷 を持っていたと考えられる。1
井上内親王と他戸王子が幽閉された約3ヶ月後に吉備由利の死亡記事がある。1
「井上内親王事件」と吉備由利の死の前後に、何度も、野狐の事件の記録が残されている。1
楊貴妃は細身のしなやかな肢体の美女だった。 😇
李白は、楊貴妃を風が吹けば飛びそうなほど細身だったと伝えられる趙飛燕に例えている。1
長恨歌に謡われる楊貴妃は、たよりなげで楚々とした肢体をもった美女として描かれている。12
楊貴妃にあった人々は、彼女に「柳」や「キツネ」、「ユリ」をイメージしている。これらは、すべて細身のしなやかな女性を想像させる。1

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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