●恵美押勝の乱の時に落ちて来た星は本当に隕石か?
しかし、奈良時代の地上に落ちて来た星の記録は、本当にすべてが隕石なのでしょうか?
特に、恵美押勝が謀反を起こすと同時に、たまたま、その泊っている家の頭上に隕石が落ちてくるなど、あまりに出来すぎているような気がします。
だいたい・・・もし、隕石が落下して、地上に激突したとしたら、最近のロシアに落ちた隕石の例にあるように、小さなものであったとしても、相当な威力を
持っていたはずです。それが、甕(かめ)ほどの大きさであったとしたら、すさまじいばかりの破壊力を持っていたと想像されます。
●隕石ではない根拠
考えてみましょう。
甕(かめ)ほどの大きさの隕石の重さがどのくらいあるかわかりませんが・・・少なくとも、100kgはあるでしょう・・・仮に100kgとし、2013
年のロシアの隕石のように秒速15kmで地上に落下したとしたなら、運動エネルギーの計算式は、1/2mv2
ですから、計算すると100kg×15000m×15000m/2=11250000000ジュールとなります。TNT火薬(トリニトロトルエン)1ト
ンのエネルギーは、4184000000ジュールとされていますので、11250000000/4184000000=2.6888・・・だいたい、これ
は、
TNT火薬2.69トンを一度に爆発させたに等しいエネルギーだ・・・という計算結果になります。(衝突の威力だけでもこれぐらいですが・・・・さらに、
ここに音速を超えた隕石の出す衝撃波が加わるはずで、私には計算が出来ませんが、すさまじいものになるでしょう。)
こんなものが、屋根の上に落ちてきたとしたら、おそらく、恵美押勝は屋敷ごと、消失していたはずです。しかし、記録を読むかぎり、恵美押勝軍は、次の日
も普通に戦っています。星が人命を奪うような大きな被害をもたらしたようにはとれません・・・という事は、記録にある「押勝の寝ている家の上に落ちて来た
星」は、たぶん、隕石ではない・・・・別の物だという考えが出て来ます。
空の上から、巨大な石が、天井を突き破って落ちて来たとしたら・・・・恵美押勝は、自分の持っている知識から、「星が落ちて来た!」と思ったでしょう。
しかし、これは、ひょっとすると人為的なものであったかもしれません。
●中国で発達していた投石機
100kgの重さを超える石を、天井の上に落とす・・・・などという事が人間の力で可能だったでしょうか?
私は、可能であったかもしれない・・・・と思います。
それは、投石機(カタパルト)の使用です。
投石機が日本で、始めて登場する記録は、これより、700年ぐらいの後の応仁(おうにん)の乱の事ですが、中国では、紀元前5世紀には、使用されていた
と言われています。
唐代には、300斤(きん)(約180kg)の石を一里(いちり)(500m)以上飛ばす事が出来るまで、発達していました。
このような投石機であれば、甕(かめ)ほどの大きさの石を、恵美押勝の防衛線の遠く離れた所から、屋敷の上に落とすなどという芸当は難しくなかったで
しょう。
●投石機による攻撃を指示した楊貴妃
もし、吉備由利の提案によって、日本では誰も見た事がない・・・しかし、中国では当たり前になっていた投石機が作られ、攻撃に参加していたとした
ら・・・・その事は記録には残せなかったでしょう・・・それに、投石機の攻撃という話であれば、恵美押勝にとって、ただ屋敷の屋根に穴を開けられただけの
損害でしたが、「星が落ちて来た」という話であれば、恵美押勝と恵美押勝の支持者達に与える精神的なダメージは非常に大きいものがありました。孝謙上皇側
にとって、そうしておく方が都合がよかったはずです。
もし、この推測があたっているなら、この乱の後の9月23日に、吉備由利が従5位下から正5位上と3階級特進(とくしん)され、その上、次の年天平神護
(てんぴょうじんご)元年(756)正月7日に勲4等が与えられたのも、衆目(しゅうもく)の納得するところであったでしょう。そして、同時に、当時の日
本人には考えつかない知識と術を秘めた・・・この由利という女性への怖れも生み出したかもしれません。
●近代兵器を使った戦いだった恵美押勝の乱
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輪流発弩図「中国古代兵器図集」
戦略戦術兵器辞典 中国編 学研より(絶版) |
いずれにせよ、私は、この恵美押勝の乱は、後の源平合戦のように名乗りをあげて戦い合うような洗練されたものではなく、その時代の最新兵器を使った野蛮
な現代的近代戦だったと思います。
天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)4月22日の続日本紀の記事に、「初めて大宰府に弩師(どし)を置いた」とあります。
ですから、天平宝字8年(764)のこの恵美押勝の乱では、 弩(ど)(ボーガン) も使用されていたでしょう。
しかし、弩(ど)は、これより、約400年後の源平合戦の頃には使われていません。
弩(ど)と弓(ゆみ)は、同じようなものだ・・・・と思うかもしれませんが、威力(いりょく)も、使用方法も全く違います。
弩(ど)は、図のように、弩に取り付けらた輪を足で踏みつけ、弦(げん)を引っ張りあげ、全身の力を使って、箭(や)を装填(そうてん)します。
これを考えるだけで、片手で
弦を引っ張るだけの弓と比べて、はるかに強力なものである事を想像出来るでしょう。しかも、照準(しょうじゅん)を木臂(もくひ)(本体)に書かれた目盛
りにあわせることによって、扱いになれていない人間でも、的に当てる事が容易(ようい)でした。
乱の緒戦(しょせん)で訓儒麻呂(くずまろ)や矢田部老(やたべのおゆ)等が次々と射殺されていますが、これは、この弩(ど)によるものではなかったで
しょうか?
●退化していった兵器
ノエル・ペリン氏の書いた「鉄砲を捨てた日本人」という本があります。(鉄
砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 (中公文庫))
この中で、ノエル・ペリン氏は、戦国時代、世界最高レベルの鉄砲軍事大国だった日本が、江戸時代300年の鎖国(さこく)政策の中で、銃を捨て、刀と槍
の時代に戻っていった歴史について書いています。
ひょっとすると、奈良〜平安時代にかけても、同じような事が起ったかもしれません。
最後の遣唐使が派遣されてから、平安時代末期に平清盛(たいらのきよもり)が日宋貿易(にっそうぼうえき)を始めるまでには、やはり約300年におよぶ
長い鎖国の時代があります。
このあいだに、中国から入って来た弩(ど)のような兵器は、忘れ去られてしまいました。
戦争が武士という職業軍人の物となり、旗を立て名乗りをあげるといったように戦争の方法がルール化され、刀・弓・槍といった武術の特殊な技能を争う場と
なる事によって、これらの誰にでも扱えるような人殺しの兵器は、戦いの美学に反すると敬遠(けいえん)される事になっていったのかもしれませんね。
参考
TNT換算
アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) では、1カロリー = 4.184ジュールと定義される熱力学カロリーに従い、1TNT換算トン =
4.184×109ジュールとしている。
カタパルト (投石機)
古代中国では遅くとも紀元前5世紀初頭には使われはじめていた。
投石機
中国古代牵引抛石机在唐朝入侵高句丽时使用的抛车能抛出300多斤的石料,对高句丽的木制城删造成重创。
中国兵法
唐初、大将の李勣は遼東城を攻め、投石器を用いて三百斤の重さの石弾を発
射し、射程は一里以上に達した
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