龍神楊貴妃伝

恵美押勝の乱1(奈良時代に起った宇宙の異変)

●恵美押勝が怖れた時の忌諱(きい)

  天平宝字(てんぴょうほうじ)7年(763)、12月29日、礼部(れいぶ)(治部(じぶ))少輔(しょうゆう)・従5 位下の中臣(なかとみの)朝臣(あそん)伊加麻呂(いかまろ)、造東大寺(ぞうとうだいじ)判官(はんがん)・正6位上の葛井(ふじいの)連(むらじ)根 道(ねみち)、中臣伊加麻呂(なかとみのいかまろ)の息子の真助(ますけ)の3人が酒を飲んで、その時、話がときの忌諱(きい)(国家機密(こっかきみ つ))に触れたという罪で、伊加麻呂は大隅守(おおすみまもり)に左遷され、根道は隠岐(おき)に、真助は土佐(とさ)に、流されるという事件がおきまし た。

 彼らは、恵美押勝派閥の構成員でした。恵美押勝が彼らを助けられなかったことが、恵美押勝派の凋落(ちょうらく)を印象づける結果となりました。

 一般には、この時の忌諱(きい)とは、孝謙上皇と道鏡(どうきょう)の事だ・・・・と言われています。
 しかし、本当にそうでしょうか?・・・・もし、そのような事であれば、狡猾(こうかつ)な恵美押勝なら、以前、そうやって玄ム(げんぼう)を片付けたように、噂を広める事で、道鏡を追い込み始末できたでしょう。
 道鏡の事なら、これを公にする事で、恵美押勝が困る理由は何一つありません・・・。
 ですから、おそらく・・・「ときの忌諱(きい)」は、恵美押勝にとっても都合の悪い話だったに違いありません。

 私は、「ときの忌諱」に、最も相応しい内容は、吉備由利(きびのゆり)の素性(すじょう)に関する噂(うわさ)であったと思います。この事を公(おおや け)にすれば、孝謙上皇派に打撃(だげき)を与える事は出来たでしょうが、同時に、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)達の主張の正当性を認める事にもな り、その処断を行なった恵美押勝に対する一層の反発を生み出す事になるでしょう。そして、下手をすれば、国際問題にも発展しかねない・・・・恵美押勝に とっては、手のつけられない、恐るべき諸刃(もろは)の剣であったはずです。

 だからこそ、恵美押勝としては、彼らを助ける事も出来ず、ただ処断(しょだん)を見守るしかなかったのでしょう。

●恵美押勝の乱の勃発

 その約半年後、孝謙上皇と恵美押勝との関係は、遂(つい)に最悪の事態を迎える事となります。

 天平宝字8年(764)、9月11日、孝謙上皇は、少納言(しょうなごん)・山村王(やまむらおう)を遣(つか)わして、中宮院(ちゅうぐういん)(淳 仁(じゅんにん)天皇の御所)にある駅鈴(えきれい)と、内印(ないいん)(天皇の御璽(ぎょじ))を回収させました。それを聞いた押勝は、すぐさま、息 子の訓儒麻呂(くずまろ)を向かわせ、途中で待ち伏せて、これを奪還(だっかん)しました。しかし、これを察知していた孝謙上皇側は、授刀少尉(たちはき しょうじょう)の坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)(最初の征夷(せいい)大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の父親)、授刀将曹(た ちはきしょうそう)の牡鹿嶋足(おじかのしまたり)らを派遣し、訓儒麻呂(くずまろ)を射殺させました。押勝は、続いて中衛(ちゅうえ)将監(しょうげ ん)の矢田部老(やたべのおゆ)を派遣し山村王を脅(おびや)かしました。しかし、それもまた、孝謙上皇側の派遣した授刀舎人(たちはきとねり)の紀船守 (きのふねもり)によって射殺されました。

●作戦司令官・吉備真備

 まさに裏の裏を突く、息も付かせない攻防戦です。孝謙上皇側は、常に恵美押勝軍の先手、先手を打って、恵美押勝達に休む間も与えません。
 恵美押勝は、なんといっても行政のトップの地位にありました。天皇も味方についています。自分自身が軍事権を掌握していましたし自信もあったはずです。恵美押勝は、自分たちの軍勢が簡単に敗れさった事に信じられない思いだったでしょう。
 孝謙上皇軍の作戦の指揮をとっていたのは、吉備真備(きびのまきび)でした。

 吉備由利は、前年末の礼部(れいぶ)(治部(じぶ))少輔(しょうゆう)の中臣(なかとみの)朝臣(あそん)伊加麻呂(いかまろ)、造東大寺(ぞうとう だいじ)判官(はんがん)の葛井(ふじいの)連(むらじ)根道(ねみち)達の事件を巧(たく)みに利用し、この年の正月21日、吉備真備を造東大寺(ぞう とうだいじ)長官(ちょうかん)に就任(しゅうにん)させ、都に呼び戻す事に成功していたのです。

●恵美押勝の乱の趨勢

 続日本紀に恵美押勝の乱について、次のようにあります。
 『中宮院(ちゅうぐういん)(淳仁(じゅんにん)天皇の御所)の駅鈴(えきれい)と内印(ないいん)を、高野天皇が回収されると、ついに押勝は挙兵 (きょへい)して反乱を起こした。その夜、押勝は仲間を呼び招(まね)き、宇治(うじ)から近江国(おうみのくに)へ逃走し、ここを拠(よ)り所にしよう とした。しかし山背守(やませのかみ)の日下部(くさかべ)子麻呂(こまる)・衛門(えもんの)少尉(しょうじょう)の佐伯伊多智(さえきのいたち)ら が、直ちに田原道(たはらのみち)(南山城(みなみやましろ)の田原(たはら)から竜門(りゅうもん)を経(へ)て、近江(おうみ)勢多(せた)に通ず る)を経て、先に近江(おうみ)にはいり、勢多橋(せたばし)を焼いた。押勝はこれを見て色を失い、直ちに高嶋郡(たかしまぐん)に走り、前高嶋郡(ぜん たかしまぐん)少領(しょうりょう)の角(つぬの)家足(いえたり)の宅に泊った。この夜、押勝の寝ている家の上に星が落ちた。その大きさは甕(かめ)く らいであった。伊多智(いたち)らは馬を駆(か)って越前国(えちぜんのくに)に入り、越前守(えちぜんのかみ)の恵美辛加智(えみのしかち)を斬った。 押勝はそのことを知らず、塩焼王(しおやきのおう)を偽(いつわ)って擁立(ようりつ)し、今の帝(みかど)とし、息子の真先(まだて)と朝獦(あさか り)らをみな三品(さんぴん)の位(くらい)とした。他の者の位はそれぞれ身分によって差があった。そして選(よ)りすぐった兵数十人を遣(つか)わして 愛発(あらち)の関に入ろうとした。しかし授刀(たちはき)舎人(とねり)の物部(もののべの)広成(ひろなり)らが拒(こば)んで、押勝軍を退却(たい きゃく)させた。押勝は進退(しんたい)の拠(よ)り所をなくし、そのまま船に乗り、浅井郡(あさいぐん)の塩津(しおつ)に向かおうとしたが、突然逆風 にあい、船が漂流して沈没しそうになった。このため上陸して更に山道を通り、直ちに愛発(あらち)の関を目指した。伊多智(いたち)らはこれを拒み、押勝 軍の8、9人が箭(や)に当たって死んだ。押勝はまた引き返して、高嶋郡(たかしまぐん)の三尾(みお)の崎(さき)(琵琶湖西岸)に至り、佐伯三野(さ えきのみの)や大野真本(おおののまもと)らと戦った。ひる頃から申(さる)の刻(午後3時から5時)ごろまでに及(およ)んで、官軍は疲れがひどくなっ た。その時、従五位下の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)蔵下麻呂(くらじまろ)が、兵を率いて突如その場に到着した。真先(まだて)らは手勢を引き連れ て退却した。三野(みの)らはこれに乗じて、押勝軍を多数殺傷した。押勝は遥かに手勢の敗れるのを見て、船に乗って逃げた。官軍の諸将は水陸の両方からこ れを攻め、押勝は勝野(かつの)の鬼江(おにえ)(高島町(たかしまちょう))で、精鋭(せいえい)の兵力を尽(つく)して防ぎ戦った。官軍はこれを攻め 撃ち、押勝の軍勢は敗れてちりぢりになり、押勝は妻子三、四人と船にのがれ、鬼江の水上に浮かんだ。そこを石村(いわれの)村主(むらぬし)石楯(いわた て)が捕えて斬った。またその妻子と従者34人も、みな鬼江のほとりで斬った。ただ第6子の刷雄(よしお)は年少のころより、仏道修行をしていたという理 由で、死を免じて隠岐国(おきのくに)に流した。』

●恵美押勝の命運を決めた隕石

 記述(きじゅつ)から、恵美押勝の乱がどのように始まり経緯(けいい)していったのかはわかると思いますので詳しくは解説しませんが・・・私には、いくつか気になる点があります。
 特に、私の気になるのは、押勝の寝ている家の上に星が落ちた・・・という記述です。

 今でも、占星術(せんせいじゅつ)はありますが・・・当時は、星の運行が、人や世の運命を決めると思われていた時代です。例えば、先に書いた道鏡(どうきょう)の「宿曜秘法(すくようひほう)」も、占星術の一つです。
 星が落ちて来た恵美押勝は、自分が天から見放されたと感じたでしょうし、周りの人間は、これで、恵美押勝の世が終わった事を感じ、恵美押勝に見切りをつける結果になったでしょう。星が落ちて来たというのは、現代人が考える以上に、恵美押勝にとって大打撃だったはずです。

 見落としがあるとは思いますが、続日本紀から、その他、流星や隕石に関すると思われる記述を拾い書きします。
『宝亀(ほうき)2年(771)、11月29日、流星があり西南に落ちた。その音は雷のようであった。』
『宝亀3年(772)、5月26日、西北方面の空中で音がした。雷鳴のようであった。』
『宝亀3年(772)、6月19日、京内に、おりおり隕石が落ちた。その大きさは柚子(ゆず)ぐらいであった。数日で止んだ。』
『宝亀3年(772)、12月13日、流星が雨のように降ってきた。』
『宝亀4年(773)、5月27日、流星があって、南北に一つずつ落ちた。その大きさは甕(かめ)ぐらいであった。』
『宝亀7年(776)、2月6日、この日の夜、流星があった。その大きさは盆(ぼん)(鉢(はち))ぐらいであった。』

 流星は、毎晩のようにあります。けれど、大抵は、大気圏(たいきけん)で燃え尽きて、地上まで落ちて来る物はごく希(まれ)です。しかし、当時は、ずい ぶん、地上まで到達する隕石があったようですね。・・・もし、こんな事が本当であれば・・・今、原子力発電所は、空から隕石が降って来る可能性について、 考えられないほど低いとして、安全対策もほどこされていませんが、見直してもらう必要が出てくるでしょう・・・。

●奈良時代に起っていた宇宙の異変

 最近、面白い科学の発見がありました。名古屋大学太陽地球環境研究所の増田公明(きみあき)准教授、同年代測定総合研究センターの中村俊夫教授を中心と するグループが、775年(宝亀(ほうき)6年)に、通常の太陽活動による変動より20倍も大きな宇宙線の変動があった事を発表しました。続日本紀の記述 は、当時、大きく、地球をとりまく宇宙の環境が変動した事を示しているのでしょう。ちなみに、宝亀6年(775)5月14日には、「白い虹が天にかかっ た。」という記述もあります。この後、史歴には大規模な災害が続々と記録されていますが、その大きな要因として、この宇宙環境(かんきょう)の変動があっ たかもしれません。

参考
 最近の研究において、屋久島で採取された2本のスギの木の年輪を調べたところ、驚くべき結果が出た。西暦774年から775年の間に、炭素14の量が1.2%増加するという急激な変化を示していたのだ。
 炭素14の量の変動率は通常、1年に約0.05%だ。つまり、1年に1.2%の増加というのは通常の20倍以上の変動率ということになり、これは宇宙で何らかの大規模爆発が起こった痕跡である可能性が考えられる。
ナショナルジオグラフィック ニュース http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/6201/

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