龍神楊貴妃伝

馬嵬事変(記録に残された楊貴妃の死の顛末)

 安史の乱の安史とは、安禄山(あんろくざん)と、その盟友である史思明(しし めい)の名の頭文字を合わせたものです。

 安禄山と史思明の軍は、始め快進撃を続けますが、顔昊卿(がんこうけい)、顔真卿(がんしんけい)、郭子儀(かくしぎ)、李光弼(りこうひつ)などの唐 の将軍達の反撃に遭い、次第に、戦いは膠着して行きます。

 唐の名将、哥舒翰(かじょかん)は、黄河の畔(ほとり)の要衝(ようしょう)である潼関(どうかん)に軍隊を構え、安禄山を持久戦に追い込もうとしてい ました。

 しかし、宰相である楊国忠は、哥舒翰が救国の英雄として人気が出るのを恐れ、哥舒翰に潼関を出て戦うように要求します。哥舒翰は、それを拒みますが、楊 国忠にたぶらかされた玄宗からも命令を受けて、やむなく潼関を出て進撃し、そして、怖れたとおりに、安禄山軍に大敗して、ほとんど全滅の憂き目にあいまし た。黄河は、数万の兵隊の遺体で埋め尽くされ、助かったものは、遺体を橋にして逃げ帰ったと伝えられています。

 守りの生命線である潼関を失うと、いまや、長安の陥落は、眼に見えていました。
 玄宗は、皇太子時代からの将軍である陳玄礼(ちんげんれい)に護衛を命じ、蜀への脱出を計ります。

 脱出組には、楊貴妃はもちろん、楊貴妃の姉である韓国夫人(かんこくふじん)・虢国夫人(かくこくふじん)・泰国夫人(しんこくふじん)、李亨・李瑁な どの皇子、宰相の楊国忠、宦官の高力士がおり・・・そして、おそらくですが、その脱出行の中には、日本から来て、一時は唐の国の高級官僚にのぼり、理由が あって、このとき、無官であり、唐の国の客分になっていた阿倍仲麻呂も、混じっていました。

 ここは、とても大事な部分ですので、いくつかの記録がありますが、楊貴妃の死の状況について、一番詳しく、そして信頼性も高いとされている資治通鑑を参考に話します。
 
 一行は、6月14日、馬嵬(ばかい)という集落に付きます。ろくな食糧の用意もなく旅立った兵士達は、疲弊(ひへい)し、憤懣(ふんまん)を抱いていま した。特に、自らの思惑のため、哥舒翰(かじょかん)軍を敗退させ、仲間達を死に追いやった楊国忠には、怨嗟(えんさ)の念が渦巻いていました。
 
 兵士達は楊国忠を惨殺し、放漫な生活を送っていた楊貴妃の姉達、韓国夫人・泰国夫人などを次々と襲い殺害します。

 玄宗は、兵士達を鎮めようとしますが、鎮まりません。
 そこで、玄宗は、宦官の高力士を通じて、兵士達の上司である陳玄礼に兵士達の気持ちを代弁させます。
 そして、陳玄礼は、楊貴妃の死を要求しました。

 玄宗は、「楊貴妃は、深宮にいて、関係がない!」とかばおうとしますが、高力士まで、楊貴妃の死罪に賛同するので、ついには、高力士に楊貴妃の殺害を命 じ・・・・高力士は、楊貴妃を近くの仏堂に引き入れて縊殺(いさつ)しました。
 そして、遺体を駅庭に置き、陳玄礼らを招き入れて、死を確認させたそうです。

 楊貴妃の死を確認した陳玄礼らは、兜(かぶと)を脱ぎ、鎧(よろい)を捨て、玄宗に罪を請(こ)うたといいます。しかし、玄宗は、かえってこれを慰労 (いろう)し、兵士らを諭(さと)すように促しました。
 こうして、軍紀はようやくもとに戻ったといいます。

 楊貴妃は、紫の褥(しとね)にくるまれ、馬嵬に埋められました。
 
資治通鑑 巻218
令收隊,軍士不應。上使高力士問之,玄禮對曰:「國忠謀反,貴妃不宜供奉,願陛下割恩正法。」上曰:「朕當自處之。」入門,倚杖傾首而立。久之,京兆司 録韋諤前言曰:「今衆怒難犯,安危在晷刻,願陛下速決!」因叩頭流血。上曰:「貴妃常居深宮,安知國忠反謀?」高力士曰:「貴妃誠無罪,然將士已殺國忠, 而貴妃在陛下左右,豈敢自安!願陛下審思之,將士安則陛下安矣。」上乃命力士引貴妃於佛堂,縊殺之。輿尸ゥ驛庭,召玄禮等入視之。玄禮等乃免冑釋甲,頓首 請罪,上慰勞之,令曉諭軍士。玄禮等皆呼萬歳,再拜而出,於是始整部伍爲行計。
近衛隊(このえたい)、軍士は応じなかった。上は、高力士を使わし之を問うた。玄礼が答えて言うには「国忠は謀反を起こしました。貴 妃は陛下のお供(そ ば)にあってはなりません。陛下、恩愛(おんあい)を捨て正法(しょうほう)をお願いします。」上は言った「朕(ちん)自ら之を決しよう」と門に入った が、杖に寄りかかり首を傾け、そうして立っていた。そのまましばらくして、京兆司録(きょうちょうしろく)の韋諤(いがく)が前に進み出て「今、衆の怒り は犯(おか)し難(がた)く、安危(あんき)の時間は刻々と迫っています。陛下速やかにご決断願います!」と叩頭(こうとう)し血を流しながら言った。上 は言った「貴妃は常に深宮に居(お)る、国忠の謀反は何も知るまい?」高力士が言った「貴妃は誠に無罪です、然(しかれ)れども将士達はすでに国忠を殺し ました、貴妃が陛下の左右にあれば、どうして安心していられるでしょうか!陛下は之をお考え願います、将士達の安心は即(すなわ)ち陛下の安心でありま す。」上は乃(すなわ)ち力士に命じ貴妃を佛堂(ぶつどう)に引き入れ、之を縊殺(いさつ)した。屍(しかばね)を駅庭に運び、玄礼等を召(め)して之を 視(み)させた。玄礼等は冑(かぶと)を脱ぎ甲(よろい)を捨て、頓首(とんしゅ)し罪を請(こ)うた、上は之を慰労(いろう)し、軍士を諭(さと)すよ うに命じた。玄礼等は皆万歳(ばんざい)を呼(さけ)び、再拝(さいはい)して立ち出(い)でた、是に於(お)いて始めて伍(ご)軍は整えられ行計(ぎょ うけい)された。
『資治通鑑(しじつがん)』とは、中国北宋(そう)の司馬光(しばこう)が、1065年(治平(ちへい)2年)の英宗(えいそう)の 詔(みことのり)によ り編纂(へんさん)した、編年体(へんねんたい)の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊(げんぽう)7年)の成立。全294巻。 もとは『通志(つうし)』といったが、神宗(しんそう)により改名されて『資治通鑑』とするようになった。
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