龍神楊貴妃伝

吉備真備の辞任2(吉備真備の辞表文)

 吉備真備(きびのまきび)の意に反して選ばれた光仁天皇(こうにんてんのう)でしたが、天皇自身は、吉備真備の事を好きで、信頼(しんらい)していたようです。

●吉備真備の辞任を慰留した光仁天皇

 辞表の願いを受けた光仁天皇は、驚き、はじめ真備の中衛大将(ちゅうえたいしょう)の任(にん)は解きますが、右大臣の任は解きませんでした。

 吉備真備の辞表願(じひょうねがい)と、それを受けた光仁天皇の言葉は、ちょっと感動的なので、続日本紀、宝亀(ほうき)元年(770)10月8日の記事を講談社学術文庫・宇治谷 孟氏の訳から、そのまま掲載(けいさい)します。

●吉備真備の辞表文

 『これより先、去る9月7日、右大臣・従二位・兼中衛大将(ちゅうえたいしょう)・勲二等の吉備朝臣真備は啓(けい)(皇太子に上申(じょうしん)する公文書(こうぶんしょ))を奉(たてまつ)って辞表を願い出、次のように述べた。
 「ほのかに聞きますところでは、力が任に及ばないのに無理に務める者はやがて役に立たなくなり、心が任に及ばないのに極限まで務(つと)める者は、必ず 判断を誤るといいます。私、真備を自ら顧(かえり)みますと、まことに十分にその証拠(しょうこ)たりえます。去る天平宝字(てんぴょうほうじ)8年に、 真備(まきび)は年齢が70に満(み)ちました。その年の正月に、官職(かんしょく)を辞(じ)す旨(むね)の上表文(じょうひょうぶん)を大宰府に提出 しましたが、その上奏文(じょうそうぶん)が天皇に奏上(そうじょう)されない間に、太政官符(だいじょうかんふ)があって、造東大寺司(ぞうとうだいじ し)長官に任命されました。そのために入京しましたが、病を患(わずら)って家に帰り、役所に出仕する心をなくしてしまいました。
 ところが、にわかに兵乱(へいらん)が起って(藤原仲麻呂の乱)、急に召されて参内(さんだい)し、軍務(ぐんむ)について戦略(せんりゃく)を練 (ね)りました。乱が平定され戦功(せんこう)を調べた時に、このわずかな功労(こうろう)によってつぎつぎに高い官職(かんしょく)に登りました。それ から職を辞(じ)して道を譲(ゆず)ることを許されず、すでに数年が過ぎてしまいました。そのため今では老いと病いが身にまといつき、療治(りょうじ)し ても治りにくくなりました。天官(てんかん)(天皇に仕える職)の職務の右大臣は劇務(げきむ)でありまして、少しの間も休んで空席(くうせき)にしてお くことはできません。どうしてこの病をもっていたんだ体(からだ)の私が、久しく宰相(さいしょう)の地位をけがし、数職を兼任(けんにん)して、天皇の 政務(せいむ)を補佐(ほさ)するのに欠けることがあってよいものでしょうか。自ら頼(たよ)りないわが身体を顧(かえり)みますに、甚(はなは)だ赤面 (せきめん)致(いた)します。天に恥(は)じ地に恥じて、身を容(い)れるところもありません。
 伏(ふ)してお願い申し上げますことは、辞職して賢者の出世の道を邪魔することを避(さ)け、上には、聖天子(せいてんし)の朝廷が私に老(ろう)を養 わせる徳をもたれることを願い、下にはこの凡庸(ぼんよう)で愚(おろ)かな私に足(た)ることを知る心を遂(と)げさせていただくことであります。特に 格別(かくべつ)のご恩(おん)を乞(こ)い望み、哀(あわ)れみ救って下さることを祈ります。心をいためる思いに絶えられず、謹(つつし)んで春宮(と うぐう)(皇太子)への路(みち)の左に参(まい)って、啓(けい)を奉(たてまつ)りお願い申し上げます。どうかお聞きとどけ下さいますように。」

●吉備真備の辞表文に対する光仁天皇の返答文

 ここに至(いた)って、天皇の返事の詔(みことのり)があり、次のようにのべられた。
 「先に奉(たてまつ)ってきた上奏(じょうそう)を見て、はじめて職を辞(じ)して家に帰りたいと言っていることを知った。
 天皇の喪(も)がまだ一年に届かないというのに、引退するとは何と早いことだろうか。悲しみと驚きが交錯(こうさく)して、すぐに答える言葉がない。夜 通(よどお)し真備(まきび)の労(ろう)を思って座っているうちに朝になってしまった。真備の願う通りにしなければ、真備の謙虚(けんきょ)の徳に逆ら うことになるし、上表(じょうひょう)の心情に応えようと思うと、いよいよ真備の賢(たっと)い助けが大切に思われる。そこで、中衛大将(ちゅうえたい しょう)の職は解くが、右大臣の職はそのまま帯(お)びているようにせよ。高官が居(い)ならぶ席の中で、右大臣の席を空けることはしないようにせよ。い まの季節は涼しくて快適(かいてき)に過ごしていることと思う。真備(まきび)よ、書面(しょめん)では意を尽(つ)くせないことが多い。」』

●吉備由利のために生きた吉備真備の後半生

 真備は、翌年、宝亀(ほうき)2年(771)に再び、辞表(じひょう)を提出し、やっと許されたと伝わっています。
 真備77歳の時でした。
 こうして辞表文(じひょうぶん)を見ると、真備は、本当は、大宰府(だざいふ)で任を降りるつもりだった事がわかります。
 都に戻ってからの後半生(こうはんせい)は、真備にとって、自分のためではなく、吉備由利(きびのゆり)に引っ張られ、由利のために生きて来たようなものであったでしょう。

 吉備真備は、この辞表文に「乞骸骨(がいこつをこう)」という表題をつけていて、真備の心情を伺(うかが)わせます。

 この後、吉備由利が亡くなった翌年の宝亀(ほうき)6年(775)年10月2日・・・・真備は、81歳で、この世を去りました。

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どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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