龍神楊貴妃伝

熊野は蓬莱である(徐福の熊野渡来伝説)

 今から、約2200年前、中国の秦の時代に生きた方士「徐福」は、秦の始皇帝 に、東方の仙山に、不老不死の薬を探しに行くと言って、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出 し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったと司馬遷 の書いた史記(「淮南衝山列伝」巻118)にあります。

●徐福の蓬莱=日本渡来説

 この東方の仙山が、蓬莱山であり、徐福は、日本に渡ったのだという話が、昔から言われています。
 徐福の伝説を残している地は、日本各地にあります。
 佐賀市、福岡の八女市、鹿児島の串木野市、宮崎県宮崎市、延岡市、四国須崎市、愛知三河豊橋市、富士山麓富士吉田市、河口湖、山中湖、藤沢市、八丈島、 青ヶ島、丹後半島、津軽半島小泊村・・・等々。

●熊野の徐福渡来説

 しかし、徐福が渡った蓬莱として、昔から最も有名な場所は、熊野でしょう・・・・。
 新宮市や三重県熊野市波多須町に、徐福の伝説が残されています。
 新宮には、阿須賀神社の端に蓬莱山という丘陵があり、ここは、徐福の上陸した所だと言われています。新宮駅の近くには、徐福公園があり、そこに徐福の墓 とその家来と言われる七塚の碑があります。熊野市波多須(はたす)町は、古くは、秦栖、又は、秦住と書かれ、徐福を祀っていたといいます。この波多須に は、徐福が焼いたという神宝の鉢が伝わり、又、徐福の宮の周辺からは、秦代の通貨である半両銭が出土しています。
 
半両銭 波田須出土の半両銭

●中国でも知られていた熊野=蓬莱説

 鎌倉時代に中国から渡来した祖元禅師・無学祖元(1226〜1286)は、熊野の徐福の霊廟を訪れたらしく次のような詩を残してい ます。

献香於紀州熊野霊祠
先生採薬未曽回    故国山河幾度埃
今日一香(耳并)遠寄 老僧亦為避秦来 ※(耳并)は、篇と旁で一字


先生(徐福)は、薬を採りに来て、未だ帰らず、故国の山河は、幾度も戦火にまみれた。
老僧(祖元)も秦を避けて、日本にやって来ました。今日は、遠くからですが、一香を手向けます。
※中国では、一般に目上の人を先生と呼ぶ

 また、その約100年後、1368年に土佐の絶海中津(ぜっかいちゅうし ん)(1334〜1405)は、明に渡り、太祖(洪武帝)に謁見しました。
 この時、絶海は太祖から、徐福の事を聞かれ、次のように答えたと言います。

熊野峰前徐福祠 満山薬草雨余肥
只今海上波涛穏 萬里好風須早帰


熊野の峰の前に徐福の祠があり、山いっぱいに薬草が茂り、雨が降る度に大きくなっています。
只今、海上の波はしごく穏やかで、万里、良い風が吹いていますので、徐福は、すぐにでも、お帰りではないでしょうか?

 これに対して、太祖は、次のように応じました。

熊野峰高血食祠 松根琥珀也応肥
当年徐福求仙薬 直到如今更不帰


高い熊野の峰に高潔な祠があり、松の根に琥珀が溜まっていくように、子孫は繁栄している。
徐福は仙薬を求めに行ったきり、今もなお、更に帰って来ない。

 ・・・このように、日本でも、中国でも、古くから、熊野は、徐福が仙薬を求めに行った蓬莱であると、知られていたのです。

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