宇佐(うさ)八幡(はちまん)神託(しんたく)事件の後も、称徳天皇は、あいかわらず道鏡を恋人として大事にしていました。けれど、道鏡を政治の場に、干渉(かんしょう)させる事は、めっきり少なくなっていきました。
吉備由利は、その事について、何も言わず、干渉もしなかったでしょう。
●阿倍仲麻呂から届いた最後の手紙
その年の終わり、新羅(しらぎ)の使節が対馬(つしま)に上陸しました。
次の年、宝亀(ほうき)元年(770)年の3月4日に新羅使(しらぎし)の金初正(きんしょじょう)らは、来朝しましたが、この時、金初正らは新羅の王
子が唐朝から帰った時に預かったという藤原清河(ふじわらのきよかわ)(中国名 河清(かせい))と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(朝衡(ちょうしょ
う))の手紙を携(たずさ)えていました。
恵美押勝(えみのおしかつ)は、新羅侵攻(しらぎしんこう)を狙い、攻略の準備を進めましたが・・・新羅は、このときも、こうして日本と友好関係を結ぼ
うとしていたようにみえます。称徳天皇(しょうとくてんのう)は、先の押勝の時からの経緯(けいい)もあって、新羅の使節を、正式な使節として礼遇(れい
ぐう)はしないとしながらも、唐国の情勢と清河(きよかわ)らの書信(しょしん)を持って来てくれたお礼に宴(うたげ)を催(もよお)し、新羅国王(しら
ぎこくおう)に絹や真綿などを送っています。
使節の持って来た阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の手紙の中に、由利に宛(あ)てた物があったでしょうか?・・・・立場上、それは難しかったかもしれません。
しかし、もし、その中に、吉備真備に宛てたものがあったとしたら、その中には、由利に宛てた言葉も書いてあった事でしょう。
実は、すでに、この年の1月、阿倍仲麻呂は、遠い異国の地で、亡くなっています。
しかし、もちろん、それを吉備由利は、まだ、知りません。
吉備由利は、懐かしい阿倍仲麻呂の消息を聞き、筆跡を見て、喜んだことでしょう。
称徳天皇は、そんなうれしそうな吉備由利をにこやかに眺めていたでしょう。
●病いに倒れた称徳天皇と政務を代行した吉備由利
それから、まもなく
称徳天皇は、病に倒れたようです。称徳天皇は、由利を枕元に呼ぶと、由利に自分の代わりに政務(せいむ)をとって行なうように依頼(いらい)しました。称
徳天皇は、自分の代わりを努める事が出来る人間は由利以外にいないと思い定(さだ)めていたのでしょう。
続日本紀には、こうあります。
『天皇はさきに由義宮(ゆげのみや)に行幸(ぎょうこう)してからすぐに身体に不調を覚え、そこでただちに平城宮に戻った。この時より百日余りを経
(へ)るまで、自(みずか)ら政務を執(と)ることはなかった。群臣(ぐんしん)らもその間(あいだ)謁見(えっけん)できた者はなかった。ただ典蔵(く
らのすけ)(後宮(こうきゅう)の蔵司(くらのつかさ)次官(じかん))・従三位の吉備(きびの)朝臣(あそん)由利(ゆり)のみ寝所(しんじょ)に出入
りして、奏(そう)すべき事を申し上げた。』
この文から考え、宝亀(ほうき)元年(770)の4月6日に『天皇が由義宮(ゆげのみや)より平城宮に戻った。』とありますので、そこから後の勅(ちょく)は、全て吉備由利が称徳天皇の意を汲んで行なっていたという事になります。
●称徳天皇の出来なかった政策を行なった吉備由利
この間の日付けの勅(ちょく)の中で、特筆すべきは、6月1日、橘奈良麻呂事件、そして、恵美押勝の乱に連座(れんざ)したものたちの罪の軽重(けいじゅう)を査定(さてい)し、赦免(しゃめん)すべきものを奏上せよとした事でしょう。
これは、今まで、称徳天皇が心の中で望みながら、出来なかった命令でした。
そして、この勅(ちょく)を受けて、 橘奈良麻呂事件に加わった262人の罪が免除(めんじょ)されたようです。
また、吉備由利は、相次ぐ疫病(えきびょう)と飢饉(ききん)、台風、そして、称徳天皇の病(やまい)の回復を願い、7月17日から7日間、全国の寺院
に大般若経(だいはんにゃきょう)の転読(てんどく)を命じ、妖気(ようき)を払い、同時に亡くなった者たちの霊魂(れいこん)を慰労(いろう)していま
す。
吉備由利は、こうして、政務を執(と)りながら、自分を愛し、そして玄宗皇帝に代わって政務を執り支えてくれていた高力士(こうりきし)を想い出してい
たでしょう。そして、高力士のようにありたいと願いながら、称徳天皇に代わって政務を執っていたのではないでしょうか・・・.
しかし、宝亀元年(770)8月4日、吉備由利の願いも空しく、称徳天皇は、ついに亡くなられました。まだ、亡くなるには早い・・・53歳の若さでした。
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