●龍神村への密使の到来 龍神村に潜む楊貴妃を玄宗の命を受けた方士(ほうし)が尋(たず)ねて来たのが、いつ頃だったのか?
正確な事はわかりません。
しかし、758〜760年の間であった事は、確信(かくしん)して述べる事が出来ます。
なぜなら、馬嵬(ばかい)事変が起ってから、玄宗が長安の都に戻るのは、757年の12月・・・ですから、玄宗が楊貴妃の改葬(かいそう)を行なったのは、758年の始め頃であったでしょう。
墓の改葬を行なおうとしていた時点では、楊貴妃の死を信じていたはずですから・・・玄宗が、楊貴妃を捜しに行く事を方士に・・・・現代風に言えば、私立探偵に楊貴妃探索(ようきひたんさく)を命じたのは、その後のはずです。
●高力士と陳玄礼を信頼していた玄宗上皇
そして、760年の7月には、玄宗は、息子の粛宗(しゅくそう)の側近である宦官(かんがん)の李輔国(りほこく)の手によって・・・最も信頼する2人
の側近、陳玄礼(ちんげんれい)と高力士(こうりきし)から引き離(はな)された・・・・李輔国は、讒言(ざんげん)によって陳玄礼と高力士を流罪(るざ
い)にした上で・・・・玄宗は、西内(にしうち)(太極宮(たいきょくぐう))に幽閉(ゆうへい)されています。
玄宗は・・・長安の都に帰って来てからも、高力士と陳玄礼を、自分の一番信頼(しんらい)する家臣として、側において離しませんでした。
私は、これこそが、この2人が、楊貴妃を殺さなかった事の重要な根拠(こんきょ)となると思います・・・・もし、私なら、愛する者を殺した人間を赦(ゆる)す事は出来ないし・・・感情として、側に置いておきたいとは思わないでしょう。
●玄宗上皇は、方士(私立探偵)を興慶宮に呼び出した
・・・・・このように、760年以降には、玄宗は、方士に楊貴妃を捜しに行かせる事を依頼(いらい)できる機会がありません。
しかし、南内(みなみうち)(興慶宮(こうけいきゅう))にいた頃は、高力士と陳玄礼に守られ、何の拘束(こうそく)もなく、自由の身分でありました。
以前にも紹介しましたが、玄宗が生きていた頃に活躍していた詩人の李益(りえき)は、
「南内真人悲帳殿 南内(みなみうち)の真人(しんじん) 帳殿(ちょうでん)に悲しみ」
「東溟方士問蓬莱 東溟(とうめい)の方士 蓬莱(ほうらい)を問う」
と書いています。
長恨歌(ちょうごんか)では、玄宗が方士を呼び出すのは、西宮(にしのみや)にいた時になっていて、方士は、先に、黄泉(よみ)の国に楊貴妃の魂(たま
しい)を捜したが、発見出来ず、蓬莱(ほうらい)に向かう筋(すじ)立(た)てになっています。しかし、これは、白居易(はくきょい)が玄宗の晩年(ばん
ねん)の悲哀(ひあい)を強調し、そして、文学的な表現を深めたかったための創作(そうさく)でしょう。
実際には、李益(りえき)が書くように、玄宗が方士を楊貴妃探索に向かわせたのは、玄宗が南内(みなみうち)の興慶宮(こうけいきゅう)にいた頃であ
り、そして・・・・高力士(こうりきし)から楊貴妃を日本に亡命(ぼうめい)させた事を聞いていたでしょうから・・・始めから、方士に蓬莱(ほうら
い)・・・すなわち、日本に向かうように指示したのだと私は思います。
●龍神村に楊貴妃を訪ねた玄宗上皇の使いの伝えた事
さて、突然に、玄宗からの使者(ししゃ)を迎えた楊貴妃は、何を思ったでしょうか?
このシーンを長恨歌から抜き書きしてみます。
聞道漢家天子使 聞くならく漢家(かんけ)天子の使(つかい)なりと
九華帳裏夢魂驚 九華帳裏(きゅうかちょうり) 夢魂(むこん)驚く
攬衣推枕起裴回 衣を攬(と)り枕を推(お)して立って徘徊(はいかい)し
珠箔銀屏邐迤開 珠箔(しゅはく)銀屏(ぎんぺい) 邐迤(りい)として開く
雲鬢半偏新睡覺 雲鬢(うんびん) 半(なか)ば垂(た)れて新(あらた)に睡(ねむり)より覚(めざ)め
花冠不整下堂來 花冠(かかん)整(ととの)えず 堂を下りて来る
風吹仙袂飄颻舉 風は仙袂(せんぺい)を吹いて飄颻(ひょうひょう)として挙(あが)り
猶似霓裳羽衣舞 猶(なお) 霓裳羽衣(げいしょううい)の舞(まい)に似たり
玉容寂寞涙闌干 玉容寂寞(ぎょくようせきじゃく) 涙 闌干(らんかん)たり
梨花一枝春帶雨 梨花(りか)一枝(いっし) 春 雨を帯(お)ぶ
「漢(唐)の天子の使いと聞いて、幾重(いくえ)もの美しいとばりの中で眠りについていた楊貴妃の魂は驚いた。
衣装をまとい枕を押しやって起き上がり、しばらく躊躇(ちゅうちょ)して徘徊(はいかい)していたが、やがて、玉の簾(すだれ)や銀の屏風(びょうぶ)を開いて彼女は道士(方士)の前に現われた。
雲のように結い上げた髪は少し崩れて目覚めたばかりの様子。花の冠も整えないままに堂に降りてきた。
風が吹いて仙女の袂(たもと)はひらひらと舞い上がり、霓裳羽衣(げいしょううい)の舞を舞っているようだった。
玉のような美しい顔は寂しげで、涙がぽろぽろとこぼれる。梨の花が一枝、雨に濡れたような風情(ふぜい)であった。」
もちろん、白居易が、この現場にいたわけもなく、このシーンは、白居易のただの空想(くうそう)にすぎませんが・・・・私は、この時の楊貴妃の胸の内は
期待と不安でいっぱいになっていたと思います。玄宗が、私を迎えに来てくれたのではないか?唐の国に戻れるかもしれない・・・という期待があったでしょ
う。同時に、今度こそ、自分が、捕らえられ、殺されるのではないか?という恐れもあったでしょう。
しかし、楊貴妃の期待と不安は、どちらも外れました。方士は、玄宗の、今も楊貴妃を愛しているという言葉を伝えただけでした。
「一体、あの人は何のために、わざわざ、こんなところまで使いを出して、こんな仕様(しよう)もない言付(ことづ)けを伝えてきたのかしら・・・」
楊貴妃は、おそらく内心がっかりしながらも、もちろん、そんな事は、おくびにも出さず、方士の求めに応じて、玄宗からもらった品物の一部を、方士が自分を訪ねた証拠として手渡しました。
けれど、この出来事は、やはり、楊貴妃に、これからの生き方を決定させる重要な決意を促(うなが)す事になりました。
もはや・・・国際犯罪人として、自分は捜索されていない事がわかりました・・・・同時に、中国に帰る望みも失われてしまいました。
・・・楊貴妃は、もう、この世には存在していないのだ・・・・。
自分は、日本人として生きなくてはいけない・・・・楊貴妃は、そう決意していたでしょう。
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