龍神楊貴妃伝

馬嵬改葬(楊貴妃の韈の記録)

●玄宗上皇、長安に帰還す

 楊貴妃は知りませんでしたが、この頃、遠く唐の国で、楊貴妃の運命を変える出来事が起っていました。

 757年、9月、唐の将軍、郭子儀(かくしぎ)が安慶緒(あんけいしょ)の軍を打ち破り、長安を奪還(だっかん)します。
 10月23日、即位して粛宗(しゅくそう)となった李與(りよ)(李亨(りこう)改名)が、帝都に帰還します。
 遅れて12月丙午(ひのえうま)の日(3日)、今は、上皇となった玄宗も、蜀の成都から長安に到着します。

 蜀から長安への帰り道には、あの馬嵬(ばかい)を通る事になります。
 馬嵬に近付くにつれて、玄宗には、可憐な楊貴妃の姿とその楊貴妃に死罪の命令を下した日の事が思い出されて玄宗を悲しませ、苦しめたでしょう。

●楊貴妃墓改葬計画

 「旧唐書」の后妃伝(こうひでん)には、「上皇自蜀還、令中使祭奠、詔令改葬。」=「上皇蜀より還る。中使をして祭奠(さいてん)令しめ、詔(みことの り)して改葬せしむ。」とあり、「新唐書」の后妃伝(こうひでん)には、「帝至自蜀、道過其所、使祭之、且詔改葬。」=「帝蜀より至り、道にその所を過ぎ り、之を祭らしめ、且(か)つ改め葬らんことを詔(みことのり)す。」とあります。
 玄宗は、馬嵬に立ち寄ったとき、あわただし く、埋めてしまった楊貴妃のみすぼらしい土饅頭(どまんじゅう)を見るにつけ、悲しみを増し、ささやかな慰霊祭を行い、立派な墓を建ててやろうと心に誓ったのでした。
舊唐書 列傳第1: 后妃上 巻51 http://zh.wikisource.org/wiki/舊唐書/卷51
新唐書 列傳第一 后妃上 卷076 http://zh.wikisource.org/wiki/ 新唐書/卷076

 しかし、その改葬(かいそう)案は、周囲から猛反対を受けます。もし、楊貴妃の改葬が行われると、楊国忠(ようこくちゅう)たちを殺した近衛兵(このえへ い)たちは、間違ったことをしたと言われているようなもので、兵士達の間に、動揺(どうよう)が走る・・・・・安史の乱がおさまっていない現在、それは、 望ましい事ではないというのです。

 それでも、玄宗は、密かに意思をつらぬき、改葬を強行しました。
 その結果が、最初の「楊貴妃の死の謎」に書いた話で・・・・楊貴妃の遺体はすでに朽(く)ち果て、ただ香(こう)を入れた袋だけが残っていたというのです。

 勅使(ちょくし)がこの香袋を、玄宗に捧げると、玄宗は、これをじっと眺(なが)め、手元において離しませんでした。そして、絵師に楊貴妃のありし日の姿を描かせると、毎日これを眺め暮らしていたと「新唐書」や、「旧唐書(くとうじょ)」には書かれています。

●玄宗上皇、楊貴妃の死を疑う

 ・・・・おそらく、玄宗は、この時まで、楊貴妃が死んでいる事を信じていました。楊貴妃の死を信じていなければ、わざわざ改葬を命じるわけがありません・・・・・。しかし、遺体が出て来なかった事が、玄宗の中に、疑念を生じさせました。
 ・・・・あの日の高力士(こうりきし)の動きは、今、考えれば・・・とても、怪しかった・・・・。玄宗は、そう考えたのではないでしょうか?

●高力士が隠しもっていた楊貴妃の韈

 玄宗は、高力士を呼びつけ、問いただしました。・・・・・それに対して、高力士は、自分が玄宗を裏切り、楊貴妃を逃がした事を白状(はくじょう)したで しょう。そして、形見(かたみ)として隠し持っていた韈(べつ)(布製の靴下のような足袋)を差し出した・・・・・それが、「玄宗遺録」の中に書かれ た・・・・高力士が、楊貴妃の韈を隠し持っていた話なのではないか?と私は思います。

 高力士は、玄宗が激怒(げきど)する事を予想し、自分が殺される事も覚悟していたでしょう。・・・・しかし、玄宗の態度は高力士の予想とは違っていました。玄宗は、韈(べつ)を眺めながら涙を流し、楊貴妃が生きている事を喜び、高力士に感謝の念を伝えました。
 ・・・・・そして、この瞬間、高力士は、真の意味で・・・・玄宗の心からの忠臣となったのではないでしょうか・・・。
※下記「玄宗遺録」の玄宗の歌「羅襪(らべつ)羅襪(らべつ)、香塵(こうじん)は、未だ絶えず」は、「楊貴妃は、未だ、死んでいない」という感慨を秘めた歌だと、私は解釈します。いかがでしょうか?

●生涯、玄宗に忠節を尽した高力士

 今、玄宗の墓の傍(かたわ)らに、楊貴妃の墓はありません。代わりに、眠っているのが、高力士です。
 この2人は、お互いに心の底から、楊貴妃を愛する事によって深く結ばれていました。高力士は、死ぬまで玄宗に忠節(ちゅうせつ)を捧げ、死後も離れられない存在となったのでした。

参考1 
旧唐書 
 中国五代十国時代の後晋(しん)出帝の時に劉昫(りゅうく)、張昭遠(ちょうしょうえん)、王伸(おうしん)らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
新唐書
  『新唐書(しんとうじょ)』は、中国の唐代の正史である。五代の後晋(しん)の劉昫(りゅうく)の手になる『旧唐書(くとうじょ)』と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書(とうじょ)』と呼ぶこともある。
 北宋(そう)の欧陽脩(おうようしゅう)らの奉勅撰(ほうちょくせん)、225巻、仁宗(じんそう)の嘉祐(かゆう)6年(1060年)の成立である。
ウィキペディア  http://ja.wikipedia.org/wiki/新唐書

参考2
野客(やきゃく)叢書(そうしょ)/卷22 
楊妃(ようき)襪事(べつのこと)
 李肇《國史補註》言,楊妃死於馬嵬梨樹下,店媼得錦襪一只,過客傳玩,每出百金,由此致富。《玄宗遺錄》又載,高力士於妃子臨刑遺一襪,取而懷之,後玄 宗夢妃子雲雲,詢力士曰:「妃子受禍時遺一襪,汝收乎?」力士因進之,玄宗作《妃子所遺羅襪銘》,有曰「羅襪羅襪,香塵生不絶」。二説雖不同,皆言妃子有 遺襪事。仆始疑其附會,因讀劉禹錫《馬嵬行》有曰「履綦無復有,文組光未滅,不見巖畔人,空見淩波襪。郵童愛蹤跡,私手解鞶結,傳看千萬眼,縷絶香不 歇。」乃知當時果有是事,甚合《國史補註》之説

楊妃(ようき)の襪(べつ=靴下)の事
 李肇(りちょう)は『国史補註(こくしほちゅう)』で次のように言っている、楊貴妃が馬嵬(ばかい)の梨の樹の下で死んだ時、店の媼(おうな)が、た だ、一足の錦の襪(べつ)を得た、通り過ぎる客に公開して、その毎に百金を出させた、このゆえ富豪となった。『玄宗遺録』には、又このように載っている、 高力士は、貴妃の臨刑の時に一足の襪(べつ)を遺(のこ)した、之を取り出しては、懐かしんでいた、後に玄宗は、夢の中に貴妃を見て、力士に問うて言っ た、「貴妃が禍(わざわ)いを受けた時、襪(べつ)を一足、遺(のこ)したという、汝(なんじ)は知らないか?」このため、力士は之を差し出した、玄宗は 『貴妃が遺(の)こした羅襪(らべつ)の歌』を作った、このように言う「羅襪(らべつ)羅襪(らべつ)、香塵(こうじん)は、未だ絶えず」。二説は、同じ でないといえども、皆、楊貴妃が襪(べつ)を遺(の)こした事を言っている。私は、始め、其(そ)れに疑いを持っていた、劉禹錫(りゅううしゃく)が『馬 嵬(ばかい)行』の中で言っているのを読んだ「あの履物(はきもの)はまだ有るのだろうか、いや、あの網沓(あみくつ)の光は未だ滅(おとろ)えていな い、巌畔(がんはん)のあの人の姿を見る事は出来ず、空しく綾(あや)なす襪(べつ)を見る。郵童(ゆうどう)(旅人)は蹤跡(しょうせき)を愛し、その 手で靴下の結びを解く、千万という眼に看(み)られても、その香(かおり)は絶えることはない。」当時果たしてこの事が有ったのだろうか、これは『国史補 註』の説に正に一致する
野客(やきゃく)叢書(そうしょ) 南宋の王楙(おうもう)(1151〜1213・福建省(ふっけんしょう)の詩人)による書
解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


ペーパーバック版、電子書籍版

龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


ペーパーバック版、電子書籍版