龍神楊貴妃伝

あとがき

 私は、この龍神楊貴妃伝を、私のこれまでの生涯での最高傑作だと思っています。自分で言うのも何ですが・・・これほどスケールの大きな・・・そして、わくわくするような謎解きは、他の人の著作でも、ほとんど見たことはありません。

 貴方は、あるいは、なんと、ごたごたとうまく都合のよい出来事を集めて来て大嘘っぱちの話を作ったものだと関心しているかもしれません。

 しかし、私にとっても、こんな風に、次から次へと、都合のよい証拠が出せるというのが、本当に驚きなのです。

 私の龍神楊貴妃伝のきっかけは、文中にも書きましたが、中国で「熊野に楊貴妃が来た」と聞いたことです。そして、龍神村で、たまたま、古い龍神温泉の絵 図を見かけて、そこに書いてあった「ヤウキヒ櫻」の文字から、この龍神村に楊貴妃がやってきたのではないかという妄想をしただけにすぎません。
 一応、その時点で、私の頭の中にあった知識は、「九尾の狐伝説」と、「安倍晴明の前世譚」、あとは、龍神村に安倍晴明と空海の伝説がある事を知っていて、そして、長恨歌は読んだことがある。という程度でした。

 私は、自分で空想した龍神村に楊貴妃がやってきたという物語にリアリティをもたせようと、龍神村に安倍晴明の伝説があることから、「安倍晴明前世譚」や「九尾の狐伝説」を思いだし、吉備真備が、連れて来たと伝わるキツネの美女と楊貴妃を、頭の中で結びつけました。
 次に、龍神村の名前の起源が、楊貴妃を表す「柳人」だという仮説を考え、そうすると龍神村の名前の起源が「難陀龍王」で、そこから空海が名付けたのだと いう従来の伝説がじゃまになったので、それを解消するために、「空海が楊貴妃渡来を知っていたのだ」という想像を加えました。
これだけにすぎません。

 熊野・・・キツネ・・・空海・・・
 この連想から、必然的に生まれて来た帰結が、熊野・伏見稲荷・高野山に楊貴妃が祀られているという想像だったわけです。
それは、間違いなく・・・私自身の頭の中の空想であったにすぎません。それ以上、証拠があがったり、話が広がったりするはずはなかったのです。

 しかし、それは起りました。なぜ起ったのでしょうか?・・・振り返って、起った事象や、出来事を、必然と偶然にわけて考えていきましょう。

 大江匡房の語った江談抄「吉備入唐の間の事」に「安倍晴明前世譚」と同じような話が書いてあったというのは・・・「吉備入唐の間の事」が「安倍晴明前世譚」の元になった物語でしょうから、ここまでは当然起るべき必然でしょう。

 ・・・しかし、あとの事は、全て、自分では説明がつかないのです。

 私の仮説が、ただの私の思い込みによる想像なのだと仮定すれば、杜甫が楊貴妃を褒姒・妲己と比べて書いているという事実を、私には説明ができません。
 キツネの美女が、楊貴妃と同じ馬嵬で死ぬ物語・・・「任氏伝」があるのはなぜでしょうか・・・なぜ、そんなお話が、見られるのでしょう?
 「吉備入唐の間の事」を残した大江匡房が九尾の狐の事を書いた「狐媚記」を書いているという事を、私は想像していませんでした。
 大江匡房が楊貴妃の故事を元にした文章を多く残しているというのも、私には、予想もしていなかった出来事でした。
 「吉備入唐の間の事」に引用された「野馬臺詩」が「安史の乱」の事を書いたと読めるのは私の全くの妄想に違いありません。
 吉備真備の発見された母の墓誌に「楊貴氏」と書かれているのは、たまたま偶然の結果なのでしょう。
 その墓誌の発見された大和国宇智郡で、空海に高野山を伝える南山の犬飼と会ったとされているのもたまたまです。
 その南山の犬飼と田辺で会った稲荷神との風体が全く同じなのも偶然です。
 空海が江談抄に書かれた橘奈良麻呂の孫である橘逸勢と唐の国で同居していたのも偶然です。
 長恨歌を書いた白居易が空海の居た頃に、空海の住居していた西明寺で牡丹の詩を詠んでいるのも、もちろん偶然です。
 熊野の三体月伝説の日に上がって来る月の形が、昔の真言宗の一派が、「サンコ」と呼んでいた形と一致するのも偶然ですし、熊野参拝の貴族が伏見稲荷に参詣する風習があったのも偶然です。
 熊野本宮の神が狐(ケツネ)を表す「ケツミミコノオオカミ」と呼ばれているのは全くの偶然ですし、熊野の縁起として「五衰伝の女御」の話があり、楊貴妃にも、五衰した天女であるという話があるのは、ただの偶然の一致です。
 漢の時代の古代の石画に「九尾の狐」と「三本足のカラス」が並べて描かれているのも偶然でしか説明がつきません。
 その「九尾の狐」と「三本足のカラス」が、西王母の使いと言われていて、長恨歌や李白、杜甫の詩の中で、楊貴妃が西王母に擬されて書かれているという事は、当然、ただの偶然でしか説明の仕様がありません。
 此の中国の三足烏(金烏)と熊野の神の使いヤタガラスが、共に三本足のカラスなのは、ただの形態上の相似であるしかないでしょう。
 伏見稲荷と楊貴妃観音のある泉涌寺、今熊野観音寺が、三位一体のようにすぐ近くにあり、稲荷山と泉涌寺の間が古代は、東寺造営のために木を切り出した参詣道で結ばれていたというのは全くの偶然です。
 楊貴妃観音のある泉涌寺の前身が今熊野観音寺であったと言われていて、そこに熊野社と稲荷社が祀られているというのも偶然です。Etc・・・Etc

 自分自身の考えを、あえて、ただの妄想だと仮定して説明しようとするならば、これらの出来事は、すべて、上記のように、ただの偶然が、たまたまそろった結果なのだということでしか私には、説明が出来ません。
 大江匡房の「狐媚記」を発見し、野馬臺詩が「安史の乱」の事を謡っているらしいと気がついたあたりから、私には、自分でも、なぜ、こんなに自分の見当通りに出来事を発見できるのか説明がつかなくなっているのです。
 はたして、私の思い込みだけで、これだけの出来事が、おこりうるなどありうるのでしょうか?これは、すべて偶然の一致なのでしょうか?やはり、これを必然と考えるべきなのではないでしょうか?

 もちろん、私の言っている事は仮説です。何より、自分自身がそう思っています。しかし、梅原猛(うめはらたけし)氏が、その著作「隠された十字架ー法隆寺論」の中で、面白い事を言っています。
 真理とは、「それはもっとも簡単で、もっとも明晰(めいせき)な前提をもって、もっとも多くの事実を説明する仮説」であるというのです。
 これを真理の定義とするなら、まちがいなく、この私の「楊貴妃渡来説」は、まさにそれであり、現段階で、もっとも真実に近い仮説であると思います。

 馬鹿の妄想とハナから決めつけ切り捨てるのではなく、皆さんに、自分自身の頭で考えていただき、検証をしていただく事を求めます。

 龍神楊貴妃伝は、実は、これで終わりではありません・・・まだ、私の頭の中に残り、明らかにしていない部分が、まだまだたくさんあります。少し、続きを述べましょう。

 私は、この龍神楊貴妃伝の中で、楊貴妃渡来が、「玉藻前」や「三十三間堂の棟木の柳」、「五衰殿」などの伝説を生み出した事を述べました。
 実は、楊貴妃渡来が生み出した物語はこれだけではありません。「かぐや姫」「桃太郎」「八百比丘尼」「百合若太夫」など、他にも様々なお話を生み出したと考えられます。
 さらに、楊貴妃渡来が起こした事件は「嵯峨天皇の聖棺飛行伝説」「空海の善女竜王伝説」等に伝えられています。
 宗教の上では、空海の真言宗や円珍の天台宗寺門派だけでなく・・・後に、時宗や日蓮宗などに大きな影響を与えています。
 政治権力の上では、承久の変や、鎌倉幕府が滅亡する元弘の変、南北朝の争乱を引き起こしていきます。
 楊貴妃信仰は強大な力を持っていたと考えられます。施政者は、楊貴妃信仰の力を畏れ、これを利用すると同時に、激しい弾圧を加えました。
 おそらく、室町時代の中期に、南北朝の争乱の終結と共に楊貴妃信仰は、一旦、弾圧のため表向き消失したでしょう。
 しかし・・・それは細々と生き残り、戦国武将の幾人かは、それを自分の権力を強め、維持するために利用しました。
 そして、江戸幕府は・・・おそらく、これは園城寺(三井寺)で天台寺門派の教義を学んだ「天海僧正」によって伝えられたものでしょうが・・・間違いなく楊貴妃信仰を政権の安定に利用していました。
 完全にその本質が消え、わからなくなった(意図的に消された)のは、幕末から太平洋戦争までにかけての・・・本当に、近年のことであったでしょう。
 いったい、それは、何故・・・どういう理由で、どういう考えで、どういう事から起ったのでしょうか?・・・本文でも、よく読んでいただければ、その謎と 回答について、ほんの少し触れていますが・・・もし、私の考えが正しければ・・・これは、太平洋戦争へ突き進んでいった日本近代史の隠された大きな犯罪で あり秘密であったはずです。

 今も、私は、こういった事を考え、調べています。
 いつか、こういった話も出来る日が来ると嬉しいですね・・・・それでは・・・・😁
解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


ペーパーバック版、電子書籍版

龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


ペーパーバック版、電子書籍版