2006.12.8 紀州一揆の足跡を訪ねて
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熊野は、戦国時代、たくさんの一揆衆の舞台となったところです。
今日は、その一揆の主人公や舞台となった場所を訪ねてみました。

まず、最初は、有馬の42号線沿いにある「鈴木孫一」の墓。
鈴木孫一は、鉄砲の達人で雑賀衆を率い、一向一揆を指揮した事で有名です。
けれど、この辺りにあるはずと・・・近くの人に場所を訪ねたのですが、「鈴木孫一」の名前さえ知らなかったのは、ショックでした。
続いて行ったのは、紀和町にある「赤木城」跡。戦国時代の城ですが、しっかりと石垣が残っていて、公園になっています。
城作りで有名な藤堂高虎の建造によるものとか・・・・
この赤木城建造にあたっては、恐ろしい話が伝わっています。
赤木城の正面にある紀和町教育委員会が立てた説明書きには、赤木城を築城した折、罪をおかした者を田平子峠で斬首し獄門にしたとあります。
いったい、罪をおかした者とはどういう人たちだったのでしょうか?
紀和町は、千枚田で知られています。昔から、乏しい耕地の中で、懸命に米や作物を作ってきたものでしょう。この田平子峠では、天正一揆や北山一揆の加担者、150名と363名、合計513名が殺されたと言います。
現在の紀和町の人口は、2000人あまり・・・この厳しい土地柄ですから、昔から、そんなに人数の多いものではなかったでしょう。
人々は、赤木城の完成祝いの名目で集められ、処刑されたといいます。
「行ったら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」
今も、地元に伝わる戯歌が、その悲惨さを物語ます。
ところで、赤木城や田平子峠に入っていく道の入り口に、こんな山神が祭られていました。
山神というと、普通、女の神様なのですが・・・

これは、男の神様なのかな?
男として頑張れますようにと、しっかりお祈りをしてきました。
さて、こちらは、ほぼ、奈良県との境の平谷にある三介地蔵。
この平谷に生まれた福本三介も人々の苦しみに怒り、一揆を率いたリーダーでした。
福本三介は、斬首され、この平谷の地でさらし首にされました。妻子5人も磔にされたとか・・・
どんなに無念で、つらく悲しい想いだったでしょうか・・・

この地蔵は、三介の死後、82年後に建てられましたが、その時代でも、供養塔として建てることは許されず、指導標の名目で作られたのだとか・・・・
福本三介は、本当に立派な人だったと、私は思います。
こんな人が死んでしまって、世に忘れられ・・・・藤堂高虎のような悪人が、後世の歴史に残り、三重県では、大河ドラマの主人公にしよう!なんていう運動もある・・・。

正義の人達は、全部、殺され・・・今、生き残っているのは悪人の子孫ばかりなんじゃあないか・・・ふと、そんな風にも思ってしまいます。
これは、一揆とは、関係ありませんが、帰りに神川町にあった田本研造の生誕地。
幕末の写真家で、北海道にわたり、五稜郭で、政府軍と戦っていた新撰組の土方歳三や、榎本武揚などの写真を写しました。
こうしてみると、石垣が立派で裕福な家柄だったのでしょうね。
いずれにせよ、土方や榎本の写真を撮ったというのは、田本も、また紀州人の反骨をもった人だったのかもしれません。