2006.11.14 紀和町鉱山跡 その1
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熊野市紀和町には、古く奈良の大仏の鋳造に使われたと言われる鉱山後があります。昭和の初期、ここは石原産業によって、近代鉱山としてその名を馳せました。 今日は、その紀和町の鉱山の遺物をたどりました。 写真は、鉱山資料館の裏にある鉱口の跡です。上にのっかているのは、ニホンミツバチの巣箱でしょうか?鍵がかかっているので入れません。入り口からは、水が流れ出しています。 |
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そこから、少し山に登ったところに、石原産業が作った慰霊塔があります。後ろの碑文を見ると建てたのは、昭和18年11月、太平洋戦争の真っ盛りです。この頃、石原産業の創設者であり、右翼の巨頭としても知られていた石原広一郎は、この紀州の山地で隠遁生活を送っていました。おそらく、この慰霊塔の除幕式にも立ち会っていたに違いありません。石原広一郎は、何を思いこの慰霊塔を眺めていたでしょうか? |
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さらに登った所にある神社。鉱山が華やかな頃は、ここで多くの神事が行なわれていたでしょうが、今は朽ち果てています。報国の名のもとに、無理な増産が行なわれ、多くの人命が失われていたでしょう。石原広一郎は、その祟りを恐れたでしょうか? |
石原産業が世界に誇った製錬所の跡。鉱山資料館の裏から、その異様が見えます。 ちなみに、鉱山資料館の写真は写していませんが、その中身は充実していて、見応えがあります。 入館料は500円ですが、高くないと感じます。 |
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製錬所跡の傍まで行きたいものですが。入り口は、石原産業によって厳重に封鎖されていました。 |
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鉱山の跡地からは、今も鉄分を含んだ赤い水が流れ出し、沈澱層によって浄化されています。 |
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石原鉱山の入り口にあるイギリス人の墓地、戦争末期の昭和19年6月300人がこの鉱山に捕虜として連れて来られ、鉱山の作業にあたりました。うち、16人が亡くなり、その墓銘碑です。紀和鉱山の人たちは、捕虜の人たちに人道的に対応し、今も、当時の捕虜の方々が来郷するなど友好関係を築いています。 |
一方、こちらは、紀和の山中の墓地群の片隅にある石原産業によって建てられた無縁塔。後ろの卒塔婆に入植中朝国と書いてあり、大半が、中国や朝鮮の人々である事をうかがわせます。 戦争中、多くの中国人や朝鮮人が連れてこられ、鉱山で強制労働をさせられていました。 英国の人たちが、その亡くなった人々の名前もわかっているのに対して、名前もなく、何人の人が亡くなったのかもわかりません。 |
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